古町・堀町
ふるまち・ほりまち
島原城の南、新町の南西に位置する。古町の一部を堀町と称した。堀丁とも記されるが、戦国期の島原氏の居城浜の城の掘割筋にあたる町であるという。古町とは松倉重政による島原城下の建設当初からの町であることに由来するとされ、島原藩庁日記の寛文一二年(一六七二)条に町名がみえる。宝永元年(一七〇四)古町別当(町年寄)の中村孫右衛門や乙名らが管轄下の諸町の飢民が三〇五人であることを報告、商人らと相談して救済策を立てたという(島原の歴史藩制編)。同四年検地とある島原領内村明細帳では「古町分」として四一五軒とあるが、これは当町の別当(町年寄)が管轄する堀町・桜町を含む。古町に寺地をもつ江戸寛永寺末の和光院があり、六反余が地子免許。寛政四年(一七九二)の島原大変以前の島原城下図(荒木家蔵)に堀町とあり、同年の島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では古町・堀町の長さ一一三間・幅二間。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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