名古屋城下(読み)なごやじようか

日本歴史地名大系 「名古屋城下」の解説

名古屋城下
なごやじようか

「天野氏集書」によれば、那古野なごや廃城後、名古屋台には葦が深く茂り、鶏・雉がたくさんいて、古井戸が多く、鷹狩の折これに落ちる危険があり、人も度々は鷹を使うことができないとある。しかし慶長一五年(一六一〇)旧城地名古屋台は、一躍、城下町に変貌した。尾張の前領主松平忠吉の居城清須きよす(現西春日井郡清洲町)の地は、低湿で水利に乏しく、水攻めの難があり、しかも大兵力の駐留に適さなかった。新領主徳川義直の家臣山下氏勝らは、城郭を他のより良好な地へ移築しようと企て、義直の父家康もその必要性を認めて、自ら二、三の候補地のなかから名古屋を選んだ。慶長一四年彼は義直を伴い、清須へきて工事につき詳細な指示を与えた。

翌一五年、北国・西国、ことに豊臣氏恩顧の大名二〇余家参加のもとに着工。早くも九月には基礎工事がほぼ完成の域に達した(国秘録国城経営図記、蓬左遷府記稿)。城の南面には城下町が建設され、清須に住む武士・寺社・町人、さらに町ごと全部の移住も始められた。名古屋越し、のち清須越しとよばれるものである。移動がかなり急速に行われたことは、同一六年正月の火災で類焼にかかる家屋が一五〇戸にのぼり、しかもその大部分が新造だった実状から想像されよう(尾藩世記)。翌一七年には検地町割。築城後もなお居所が定まらず、あるいは名古屋と清須との間を往復し、あるいは名古屋近郊に仮住居する武士や町人も、ようやく永住の居宅を名古屋に構えることができた(編年大略)

元和二年(一六一六)七月、駿府すんぷ(現静岡市)の家康のもとにいた領主義直が入国。いくらかの駿府士民の流入をみた。いわゆる駿河越しである(御日記頭書)。慶長一五年に端を発した市街の形成も、駿河越しの終わった元和初年をもって一応完了する。以来、明治初年に至るまで名古屋は御三家の一、尾張徳川氏の城下であった。

明治二年(一八六九)藩主徳川義宜は版籍を朝廷に奉還。名古屋の城下町は形式的に崩壊、新時代にふさわしい都市へと脱皮していく。同年の職制改革で、町奉行が民政権判事市政商政懸と改められたのは、一つの現れに違いないが、それを決定づけた事件は、同四年九月の名古屋の区制実施であろう。廃藩置県で名古屋藩は名古屋県となり、さらに愛知県と改称し、翌五年、市内は第一大区と定められた。藩政期の町中まちじゆう寺社門前じしやもんぜん町続まちつづきの市街組織は、このとき完全に解体された。第一大区は九小区に分割、従来各町に設置された町代ちようだいに代えて各区に触頭ふれがしらを置き、区長を兼ねさせた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の名古屋城下の言及

【名古屋[市]】より

… 名古屋が名実ともに尾張の中心になったのは江戸時代に入ってからで,1610年(慶長15)徳川家康の名古屋城築城によるところが大きく,尾張藩祖徳川義直により,61万石の城下町としての繁栄の基礎が固められた。名古屋城下の南に位置する宮宿(みやのしゆく)(熱田)は熱田神宮の門前にあった宿場で,桑名と結ぶ東海道五十三次唯一の海上ルート七里渡(しちりのわたし)の発着地としてにぎわいをみせた。明治20年代から40年代にかけて東海道本線,中央本線,関西本線がそれぞれ全通し,1907年の名古屋港開港などによって東西の結節地としての性格を強めていった。…

※「名古屋城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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