日本歴史地名大系 「名古屋城下」の解説
名古屋城下
なごやじようか
「天野氏集書」によれば、
翌一五年、北国・西国、ことに豊臣氏恩顧の大名二〇余家参加のもとに着工。早くも九月には基礎工事がほぼ完成の域に達した(国秘録国城経営図記、蓬左遷府記稿)。城の南面には城下町が建設され、清須に住む武士・寺社・町人、さらに町ごと全部の移住も始められた。名古屋越し、のち清須越しとよばれるものである。移動がかなり急速に行われたことは、同一六年正月の火災で類焼にかかる家屋が一五〇戸にのぼり、しかもその大部分が新造だった実状から想像されよう(尾藩世記)。翌一七年には検地町割。築城後もなお居所が定まらず、あるいは名古屋と清須との間を往復し、あるいは名古屋近郊に仮住居する武士や町人も、ようやく永住の居宅を名古屋に構えることができた(編年大略)。
元和二年(一六一六)七月、
明治二年(一八六九)藩主徳川義宜は版籍を朝廷に奉還。名古屋の城下町は形式的に崩壊、新時代にふさわしい都市へと脱皮していく。同年の職制改革で、町奉行が民政権判事市政商政懸と改められたのは、一つの現れに違いないが、それを決定づけた事件は、同四年九月の名古屋の区制実施であろう。廃藩置県で名古屋藩は名古屋県となり、さらに愛知県と改称し、翌五年、市内は第一大区と定められた。藩政期の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報