名草郡(読み)なくさぐん

日本歴史地名大系 「名草郡」の解説

名草郡
なくさぐん

紀伊国北西部に位置し、北は和泉国、東は那賀なが郡、西と南は海部あま郡に接し、紀ノ川和田わだ川・かめの川などの沖積平野によって形成された和歌山平野の大部分を占める。

郡名の初見は「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年六月二三日条の「名草邑」は別として、「続日本紀」大宝三年(七〇三)五月九日条の「令紀伊国奈我・名草二郡、停布調糸、但阿提・飯高・牟漏三郡献銀也」が初見。「和名抄」刊本郡部に「奈久佐」と訓じ、「国府」と注するように紀伊国府の所在郡で、その地は現和歌山市府中ふちゆうに比定され、国衙域は国府の南辺中央の二町四方と推定されている。郡の開設は「国造次第」(紀家蔵)の一九代大山上忍穂の項に「忍勝男、立名草郡、兼大領」とあり、この紀国造系譜の記事すべてを信頼することはできないが、忍穂の代以後系譜の記載が詳しくなり、「続日本紀」以下の正史にみえる人名と一致する場合が少なくない。したがって、忍穂の帯する「大山上」の冠位からして彼が大化(六四五―六五〇)前後の人物とみてよく、おそらく孝徳天皇の頃立郡されたと思われる。

名草郡は紀国造の蟠踞する地であり、「令集解」の選叙令同司主典条に引く養老七年(七二三)一一月一六日の太政官処分や「続日本紀」同日条にみえるように、下総国香取郡・常陸国鹿島郡とともに、郡司少領以上の職を三等以上の親族で連任できる特権が付与され、伊勢国渡相(度会)郡・竹(多気)郡や安房国安房郡・出雲国意宇郡・筑前国宗形郡とともに八神郡の一つとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報