和歌山城下(読み)わかやまじようか

日本歴史地名大系 「和歌山城下」の解説

和歌山城下
わかやまじようか

和歌山城を中心とする近世の城下町。紀ノ川河口部南岸にあり、東は和歌川が曲流しつつ南流する。和歌山は若山とも記したが、元禄年中(一六八八―一七〇四)若山の文字に統一され(続風土記)、明治初年に再び和歌山に戻された。城の建つ丘陵は古くおか山・吹上ふきあげ峰と称された地の北部分で、町屋はおもにその北(内町・北新町)・西(湊)と東の一部(広瀬)および和歌川東側(新町)に区画されていた。

〔城下町の建設・発展〕

天正一三年(一五八五)根来・雑賀の一揆を討滅して紀伊国を平定した豊臣秀吉は、ただちに和歌山に築城して弟の秀長を国主とした(天正一三年七月二日付「羽柴秀吉書状写」三好家文書)ことに始まり、秀長は桑山重晴を城代とした(川角太閤記)。当時の様子はほとんど不明であるが、「続風土記」は桑山氏時代にほり川を開削し、西の紀ノ川河口と東の和歌川を結んだとする。堀川を城北の外堀とするとともに、両川の水運を結んで城下の発展を期したものである。城の大手門は城南ののちの岡口おかぐち御門、大手筋は城東の広瀬ひろせ口より東に延びて現在の広瀬通ひろせとおり丁・細工さいく町・三木みき堀詰ほりづめの辺りが町屋であったという(続風土記)。これは当時最も開けていたみや郷と雑賀さいか庄が和歌川の水運で結ばれ、その中間に位置する広瀬が町として発展する条件を備えていたこと、および古代以来現れるおか村の村居と接近していたことなどによると考えられる。また三木町堀詰の辺りは新たに開削された堀川が和歌川と合流し、紀ノ川水運との接点となったことから、しだいに町屋が立並んだものであろう。さらに、築城以前の村居として東に岡村、北に宇治うじ(領)鷺森さぎのもり御坊の門前町、西に紀ノ川水運の拠点のみなと村などがあり、しだいに城下町との接触を深めていったと考えられる。「続風土記」は丘陵北麓に釘貫くぎぬき村の村落があったが、築城で郭内に編入され、民家を城北きた町に移したと伝えるが、釘貫村は宇治村(領)の小名であろう。この時代の和歌山城下は大和郡山こおりやまの支城にすぎず、城代桑山氏も知行わずか三万石で、規模も大きくはなかったと考えられる。

慶長五年(一六〇〇)一〇月、関ヶ原の戦功によって浅野幸長が紀伊国に封ぜられ、和歌山城を居城とするに至り、名実ともに三七万六千余石の国治として城郭はもとより城下町もその体裁を備えることとなった。「続風土記」は初めは広瀬口を大手筋とし、また時期は明らかではないが、この頃に堀川の支流として、西の丸にしのまる川が城の西側、堀詰川が東側に開削されたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和歌山城下の言及

【和歌山[市]】より

…市域南部には,西国三十三所2番札所で,桜の名所としても知られる紀三井(きみい)寺がある。【重見 之雄】
[和歌山城下]
 紀伊国の城下町。地名の初出は1585年(天正13)7月2日付けの遠藤基信宛羽柴(豊臣)秀吉書状写で,〈紀州和歌山〉に弟の秀長をおいて居城を造るという文書である。…

※「和歌山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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