日本歴史地名大系 「和歌山城下」の解説
和歌山城下
わかやまじようか
〔城下町の建設・発展〕
天正一三年(一五八五)根来・雑賀の一揆を討滅して紀伊国を平定した豊臣秀吉は、ただちに和歌山に築城して弟の秀長を国主とした(天正一三年七月二日付「羽柴秀吉書状写」三好家文書)ことに始まり、秀長は桑山重晴を城代とした(川角太閤記)。当時の様子はほとんど不明であるが、「続風土記」は桑山氏時代に
慶長五年(一六〇〇)一〇月、関ヶ原の戦功によって浅野幸長が紀伊国に封ぜられ、和歌山城を居城とするに至り、名実ともに三七万六千余石の国治として城郭はもとより城下町もその体裁を備えることとなった。「続風土記」は初めは広瀬口を大手筋とし、また時期は明らかではないが、この頃に堀川の支流として、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報