日本大百科全書(ニッポニカ) 「呉鼎昌」の意味・わかりやすい解説
呉鼎昌
ごていしょう / ウーティンチャン
(1884―1950)
中華民国の財界人、政治家。字(あざな)は達銓(たつせん)。四川(しせん/スーチョワン)省華陽県の人。日本の東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。1910年(明治43)帰国後、本渓(ほんけい)湖鉱務局総弁、大清銀行江西支店監督などを歴任。中華民国以後は中国銀行正監督、天津造幣厰(てんしんぞうへいしょう)監督、塩業銀行総経理などを歴任した。政界では1905年同盟会、1913年進歩党に加入し、ついで安徽(あんき)派の段祺瑞(だんきずい/トワンチールイ)に投じて、1918年には財政部次長に就任した。安徽派没落後は塩業銀行を足場に北方銀行北四行の中心人物として、中国金融界の指導者の一人となった。政治的には政学系に属する一方、『天津大公報』と『国聞周報』の社長となり、政界、言論界にも重きをなした。1935年12月民国政府の実業部長に就任し、経済建設を進めた。抗日戦争勃発(ぼっぱつ)後、貴州省主席となり、貴州(きしゅう/コイチョウ)企業公司(コンス)などを組織。1945年1月国民政府文官長、1948年5月総統府秘書長に就任。1949年1月、革命の進展により香港(ホンコン)に逃げ、翌1950年8月病死した。
[石島紀之]