翻訳|Hong Kong
英国から1997年7月1日、中国に返還され、中国の特別行政区となった。憲法に当たる「香港基本法」は、中国内に社会主義と資本主義の異なる体制を併存させる「一国二制度」に基づき、香港での「高度な自治」の適用などを規定。これにより資本主義体制が維持され、外交と国防以外では一定の自治が認められている。中国は外務省の事務所を設置、人民解放軍の部隊を駐留させている。大型武器は広東省に配備しているとされる。人口は720万4千人(2013年)、在留邦人は2万3100人(12年)。(共同)
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中国南部、南シナ海沿岸にあるイギリスの旧直轄植民地。1997年以降中国の香港特別行政区。広州(こうしゅう)の南東130キロメートルに位置し、香港島と対岸の九竜(きゅうりゅう)半島(カオルン半島)および周辺の大小230余りの島々からなる。うち香港島とその付属島嶼(とうしょ)および半島部先端の九竜、ストーンカッターズ島はイギリスの直轄領土であった。半島の残り全域とその他の島々は新界とよばれ、1889年から99か年を期限として(1997まで)イギリスが中国から租借していたものである。1984年12月の中英共同宣言により、1997年7月1日に香港全域が中国に返還された。植民地時代はイギリス女王の名代である総督が統治し、British Crown Colonyとよばれていた。返還後は特別行政区の行政長官が統治する。初代行政長官は董建華(とうけんか)。面積1106平方キロメートル、人口740万9800(2017)。人口密度は1平方キロメートル当り6780人。行政府は香港島の中西区。
[横山昭市]
半島と多数の島々からなる香港は、出入りに富んだ海岸線をもち、各地に天然の良港を形成している。しかし、台地が海岸にまで迫っているため低地は少なく、新界北部に小規模な沖積平野がみられるにすぎない。地盤は大部分が花崗(かこう)岩やその他の火山岩からなっており、土地利用は著しい制約を受けている。全面積の48%が草地ややぶで、20%が林地、住宅地や商工業用地などは16%、新界北部にみられる耕地はわずかに8%を占めるにすぎない。高層ビルが九竜一帯や香港島に林立し、香港島はビクトリア・ピーク(554メートル)の山腹にまで密集しているが、これは狭い所に人口が集中したことと地盤が固いためである。河川は大きなものはなく、新界北部に幾筋かが流れるのみである。このため水不足は深刻で、多くの貯水池があるが、中国本土からも給水(買水)するほどである。香港の面積は1960年以降約40平方キロメートル増加したが、これは香港島や九竜の海岸埋立てによるもので、商業地、港湾、住宅用地として利用されている。
気候は、北回帰線のすぐ南にあり南シナ海に面するため亜熱帯モンスーン気候である。夏は7月の平均気温が28.8℃で、南西の風が吹き、雨が多く蒸し暑い。冬は1月の平均気温が16.3℃としのぎやすく、北東の風の影響で乾期となる。年間2398.5ミリメートルの降水量があるが、そのほとんどは6月ごろの梅雨と8月の台風の時期に集中する。
[横山昭市]
イギリスの香港領有は、アヘン戦争(1840~1842)の結果、南京(ナンキン)条約により香港島を手に入れたことに始まる。当時、対中国貿易の拠点は広州であったが、香港島は安全で停泊地としての条件がよく、中国本土に近いため、広州にかわりうる条件を備えていた。1842年にいち早く自由貿易港宣言が行われたが、これはその後、広州の貿易活動を抑える役割を果たした。イギリスはさらにアロー戦争(1856~1860)を仕掛け、北京(ペキン)条約で九竜とストーンカッターズ島を獲得して直轄植民地に編入した。そして1898年には直轄植民地の防衛を口実に新界を租借し、ここに今日の香港の領域が確定した。1899年には九広鉄道(九竜―広州)建設の権利を中国から得て、沿岸航路を開設し、以来香港はイギリスの対中国、対アジアの貿易、交通、金融の拠点となった。1912年の中華民国の成立に続く内乱期には、中国人と彼らの資本の避難所となったが、民族主義運動の激化によって1925~1927年には反英運動が高揚した。しかし、日本が中国東北地区を支配するようになると中国とイギリスの関係は友好的になり、1937年、日本軍が中国を侵略すると、中国人の香港流入が相次いだ。しかし1941年の太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)と同時に香港は日本軍の攻撃を受け、以後1945年8月30日までその占領下に置かれた。
第二次世界大戦後はイギリスの施政下に戻り、1948~1950年の中国内戦と共産主義政権の成立によって、中国人移住者とくに難民が急増し、以来人口は増加の一途をたどった。また経済は1950年代までは中継貿易に依存していたが、1960年代以降は工業や観光が目覚ましい成長を遂げた。こうしたなかで中国の「文化大革命」の時期には、香港でも左派系中国人による反英闘争があった。しかし中国は経済活動や政治・外交のうえで香港の重要性を利用することが得策だとみていた。1978年末の鄧小平(とうしょうへい)による「改革開放」体制への転換によって、中国は香港の平和的返還への道として「一国両(二)制」や「港人治港」を戦略にイギリスとの交渉を進めた。その一方で、1980年代に入って中国は香港に隣接した深圳(しんせん)に経済特区を設けて、香港からの積極的な投資を誘い、華僑(かきょう)の中国訪問も促すこととなった。
[横山昭市]
新界の租借期限を前に1982年9月から中英交渉が始まった。中国側は、返還後も現状維持の方針を打ち出し、イギリスは全香港の主権を中国に一括返還することとした。「一国二制度」とは、香港を特別行政区として外交と国防以外の自治権を認め、香港は50年にわたって現行の社会・経済制度や自由貿易港の地位などを維持するとしたものである。返還後は、「中国香港」Chinese Hong Kongが正式名となり、「港人治港」による特別行政区長官(香港行政長官)や立法会議員の選出では、自由な選挙がうたわれているが、これらの人選では北京政府の指導が強く、住民の間に中国化への危惧(きぐ)をもつものがいる。
[横山昭市]
イギリスが香港を領有したのは、東アジアへの軍事的拠点の確保に加えて、広大な中国と第三国との間の中継貿易に利益を求めたことにあった。自由貿易港を基礎に商業、貿易、金融活動の自由によって繁栄してきた。第二次世界大戦後は、中国の共産党政権から逃避した華人資本と製造業、多くの難民流入などによって、繊維、衣類、プラスチック製品など軽工業を主とした工業化が進み、日本やアメリカなどの資本投下もあって急成長をとげ、アジア屈指の加工貿易の発展をみた。1980年代には、電気機器や電算器などの組立工業が多くなったが、一方では、中国の改革開放政策により中国本土への華人資本の投下と工業化などで、香港は貿易、金融、商業サービス産業が活発になり経済は構造的変化をとげた。2017年時点では、全従業者に占める製造業の割合は2.5%、小売り、貿易がそれぞれ8.3%と12.8%、金融および保険が6.8%となった。香港の華人資本の中国への投資は活発で、労働賃金が安いことから大きな工場を建設し、また都市開発などへの進出が多くなっている。
香港は世界有数の貿易地である。1995年には輸出額は世界第9位、輸入額は7位、1人当り貿易額は3万ドルとシンガポールに次ぎ、2016年には輸出額で世界7位、輸入額で7位となっている。輸出入品では、ともに電気機器・同部品、通信・音響機器が半分で、輸出に占める再輸出品は98.9%(2017)である。香港の中継貿易機能はイギリス統治時代からの伝統であるが、1990年代に入って華人資本の中国進出が増加をみたことから、香港を経由して中国原産品の加工品が盛んに輸出されるようになった。貿易相手では輸出入ともに中国が圧倒的に多い。貿易機能の発達は、香港を世界的な金融センターにした。東アジアの香港ではニューヨークとロンドンとの中間にある地理的位置の有利、東南アジアを主とした華僑のネットワークとの強い結び付きなどが金融活動を活発にしている。1980年代後半から、香港はアジアの企業活動の地域センターとなり、外国企業(地域統括本部を置いている企業)は1530社に上る(2018)。アメリカや日本の企業が多い。交通機能でも香港はアジアでもっとも整備された港湾都市で、2016年のコンテナ取扱量は1958万個(20フィート換算)と、世界第6位の港である。航空路上でもアジアの十字路であり、キャセイ・パシフィックやキャセイ・ドラゴンなどの航空会社がある。カイタク(啓徳)空港は年間利用客2500万人を超えるアジア最大級の空港であったが、利用に限界がきたため、香港島の西のランタオ島に香港国際空港が建設され、新空港と市街地とは鉄道と高速道路で結ばれた。そのため、カイタク空港は廃止された。中国本土へは九竜から深圳を経て広州に通じる広九直通列車、広深港高速鉄道と自動車道路があり、高速道路を使えば広州に2時間で着く。
[横山昭市]
住民の97%が中国人であり、その約60%が香港生まれで香港人(Hongkongese)とよばれる。中国人の大多数が広東(カントン)系であるが、広東省西南の四邑(セヤ)出身者と同じく東部の福建(ふっけん)省に近い潮州(ちょうしゅう)人の間では使用語が異なって互いに通じにくい。このほか客家(ハッカ)人や福佬(ホクロ)人、蛋家(タンカ)人、上海(シャンハイ)人など、出身地や使用語を異にする人びとが住み、さらに同郷や職業、祖先などを同じくする地縁・血縁による集団もあり、複雑な社会を構成している。イギリス領時代は英語が公用語で広東語や標準中国語(普通語(プートンホワ))も使われてきたが、返還後は標準中国語が公用語となり、学校教育でもその学習が求められている。
教育は小学校(6年)と初等中学校(3年)が義務教育で就学率はきわめて高い。大学は予科を経て入学する。1911年設立の香港大学をはじめ1963年設立の香港中文大学のほか香港理工大学や単科大学、短大などがあるが、競争率が高く入学のための予備校が多い。中国返還によって社会不安をもたらしたのはパスポート問題で、住民の半分が取得していたイギリス属領市民パスポートが返還後無効になった。このパスポートはイギリス本国での居住権を認めたものではなく、約80か国にビザ不要で入国できるものであった。住民は中国側の香港特別行政区のパスポートかイギリスの海外居住国民パスポートのどれかを取得する選択に迫られた。イギリス側のパスポートは返還後50年間にわたり一代限りの保護を約束し、返還までに多くの住民が取得に殺到した。また、イギリス特別旅券や香港の永住権と外国の国籍をもつ二重国籍者など約90万の居住者も中国の二重国籍を認めない方針によって国籍の選択を迫られた。
[横山昭市]
「東洋の真珠」といわれる香港は、東アジアの観光の中心で、景色の美しさに加えて自由貿易港による買物の楽しみもあって観光産業は重要な地位を占めている。香港を訪れた外国旅客は、2017年に2789万人で、アジアでは中国本土の6074万人、日本の2869万人に次いで多い。これら旅客は観光のほかにビジネスが多く、東南アジアの華僑の訪問や中国本土からの買物や商用が増加してきた。日本の企業は1378社が拠点を置き、在住日本人は約2万6000人である(2017)。これは、香港が中国本土の玄関口になっていることによる。1990年代には、日本からの観光客も年間200万人を数えたが、返還行事を商品とした観光は、宿泊費などの著しい値上がりで予想外に不人気であった。2003年のSARS(サーズ)の影響で日本人観光客は一時減少したが、2004年には122万人にまで回復した。また2005年9月には香港ディズニーランドが開園した。
香港島と九竜との間の狭水路は世界三大美港の一つのビクトリア港で、両岸に林立する高層ビルの夜景は「100万ドル」といわれる。香港島のビクトリアは、行政、銀行、商社、ホテルなどが集中し、中国銀行や香港上海銀行本店が威容を誇っている。旧総督府は返還後は香港特別行政区長官邸に変わった。東側のワンチャイやノース・ポイントは商業地区で日本の百貨店もあり、西側のションワン地区には古くからの華人貿易商が集中する。香港島南岸には、漁港のアバディーンがあって、水上生活者も多く海鮮料理で知られる。九竜は商業の中心地でホテルが多く、中国本土に隣接したサンカイ地区は、市街地の拡大で高層住宅団地や香港特有の工場が入ったビルが多い。
[横山昭市]
『横山昭市著『香港工業化の研究』(文部省学術助成図書・1964・大明堂)』▽『ジェトロ香港センター編著『中国華南・香港進出マニュアル』(2003・ジェトロ)』▽『広江倫子著『香港基本法の研究――「一国両制」における解釈権と裁判管轄を中心に』(2005・成文堂)』▽『浜下武志著『香港』(ちくま新書)』▽『野村総研(香港)編『香港と中国』(朝日文庫)』▽『中嶋嶺雄著『香港回帰』(中公新書)』▽『世界経済情報サービス編『ARCレポート――香港』各年版(世界経済情報サービス)』
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中国南部の広東省と地続きの九竜半島と香港島および周辺の島々からなる地域。150余年にわたりイギリス領植民地となっていたが,1997年に中国に返還されて中国の特別行政区となった。イギリスは,南京条約(1842年)と北京条約(1860年)で清朝政府に香港島と九竜半島の先端部を割譲させ,さらに1898年新界と呼ばれる九竜半島のつけ根の部分と周辺の島々を99年間租借することによって香港を植民地とした。香港は,まず中国の産品を東南アジアや欧米に,また欧米の工業製品と東南アジアの産品を中国に再輸出する中継貿易港として発展した。第二次世界大戦中,一時日本の占領下に置かれたが,戦後は,工業化を進めて海外から原材料を買い,加工した香港製品を輸出する加工貿易港に転じた。また1970年代には国際金融センターとして発展した。香港が植民地にもかかわらず,このように発展することができたのはイギリス型の自由貿易や自由放任主義的な経済運営が行われたからだとみられている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「ホンコン特別行政区」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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