安徽派(読み)あんきは(英語表記)An-hui-pai

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「安徽派」の解説

安徽派
あんきは
An-hui-pai

中国の北洋軍閥一派。首領の段祺瑞 (だんきずい) が安徽省出身なので安徽派の名が生れた。中国では皖 (かん) 系,段派とも呼ばれる。 1916年の巨頭袁世凱の病死後,北洋軍閥馮国璋を首領とする直隷派と安徽派とに分れた。 17年以後南北対立の情勢のなかで,安徽派は孫文らの革命派を中心とする南方派に対して武力討伐を主張し,平和的解決を主張する直隷派との間に争いを生じた。 18年8月段の御用政党として安福派 (安福倶楽部) が結成され,国会の多数党として勢力をふるった。安徽派は日本の寺内正毅内閣の援段政策により西原借款,参戦軍編成,日中共同防敵軍事協定などの援助を受けて,国内における政治的軍事的立場を強化した。しかし第1次世界大戦の終了とともに英米の圧力が加わり日本の支援も弱められ,またその対日妥協政策が 19年の五・四運動の一因となり,国民の非難を浴びた。 20年7月の安直戦争で安徽派は敗れ,安福派は解散させられ,段は下野した。 24年の第2次奉直戦争で奉天派が勝利を収めると,安徽派,奉天派,馮玉祥の連立政権がつくられ,段は臨時執政となった。 26年以後,北伐が進展し,28年北洋軍閥各派の没落とともに安徽派は消滅した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)「安徽派」の解説

安徽派
あんきは

段祺瑞(だんきずい)を首班とする中国北洋軍閥の一派。段派、皖(かん)系、安福派、安福クラブともよばれる。1916年袁世凱(えんせいがい)の死後、段祺瑞はその後継者として北京(ペキン)の実権を握ったが、直属の軍隊は弱小で、最大のライバルであった直隷派に対抗して日本の寺内内閣と結託、西原借款や日本軍将校の配属を受け、日華軍事協定を締結し、さらにロシア革命への干渉である日本のシベリア出兵にも参加した。1918年の国会選挙では、安福クラブが絶対多数を占めたが、翌1919年、国内の民主化を求め売国的外交政策に反対する五・四(ごし)運動によって国民的反撃にあい弱体化した。1920年7月、直隷派との安直戦争で敗北、段は1924年に臨時執政に返り咲いたが、もはや安徽派としての実体はなかった。

[加藤祐三]

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旺文社世界史事典 三訂版「安徽派」の解説

安徽派
あんきは

中華民国初期の北洋軍閥の一派。安福倶楽部ともいう
袁世凱 (えんせいがい) の死後,安徽省出身の段祺瑞 (だんきずい) が内閣を組織し,日本の援助の下に,直隷 (ちよくれい) 派・南方派の反対を排して対独国交の断絶をはかった。段は一時失脚したが,まもなく復帰し,西原借款による日本の援助で勢力を強化して対独参戦を断行した。1918年南方の武力統一に失敗し,20年安直戦争で直隷派に敗れ,以後衰退した。

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精選版 日本国語大辞典「安徽派」の解説

あんき‐は【安徽派】

〘名〙 中国の軍閥。袁世凱の死後、安徽省出身の段祺瑞が率いた中国北洋軍閥の一派。政権を握り、日本の寺内内閣と結んだが、一九二〇年の安直戦争に敗れ、勢力を失う。段派。安福派。

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世界大百科事典内の安徽派の言及

【軍閥】より

…北洋軍閥は華北・華中の要衝をおさえることにより,周辺の諸軍閥をしたがえたのである。袁世凱の死後,北洋軍閥は段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂し,雲南,広西方面には陸栄廷,唐継尭らの西南軍閥が割拠した。ここに南北分裂がはじまり,北京の中央に対立する広東政府の登場をみる。…

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