デジタル大辞泉
「段祺瑞」の意味・読み・例文・類語
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だん‐きずい【段祺瑞】
- 中国の政治家。ドイツに留学、帰国後袁世凱の参謀として、その新軍創設を援助するなど北洋軍閥の重鎮として活躍したが、のちに袁の帝制に反対して下野。袁の死後、北京政界の実権をにぎったが、露骨な親日政策や民衆弾圧によって失脚、上海で客死した。(一八六五‐一九三六)
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段祺瑞
だんきずい / トワンチールイ
(1865―1936)
中国の軍閥政治家。安徽(あんき)省出身。清(しん)末から袁世凱(えんせいがい)の腹心として北洋新軍の創設に努めた。辛亥(しんがい)革命後は、袁のもとで中華民国陸軍総長、国務総理などに就任。袁の死後、安福派(安徽派)の軍閥官僚を率いて、馮玉祥(ふうぎょくしょう)を頭とする直隷(ちょくれい)派と対立し、北京(ペキン)政府の実権を握るため、軍閥戦争を繰り返した。1917年から1918年にかけて、日本の寺内正毅内閣の援段政策と結び、西原借款などの援助を受け、南方革命派の弾圧を図った。1924年北京で臨時執政に就任。1926年には魯迅(ろじん)が「民国以来もっとも暗黒な日」といった三・一八事件で学生運動を弾圧。1928年、北伐完了とともに勢力を失い、上海(シャンハイ)で没した。
[安藤彦太郎]
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段祺瑞【だんきずい】
中国,清末民国初の軍閥政治家。安徽(あんき)省の人。袁世凱(えんせいがい)の部下として辛亥(しんがい)革命に活躍し,陸軍総長,国務総理を歴任。袁の死後,日本の寺内内閣の支援を受け(西原借款),北洋軍閥安徽派巨頭として実権を握った。1920年安徽派対直隷派の安直戦争に敗れたが,1926年には北京で学生運動を弾圧した。
→関連項目五・四運動|張勲|馮国璋|北洋軍閥|梁啓超
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段祺瑞 (だんきずい)
Duàn Qí ruì
生没年:1865-1936
中国の軍人。安徽省合肥の人。祖父の代から淮(わい)軍の将の家の出である。字は芝泉,号は正道老人。北洋武備学堂の第1期生を首席で卒業してドイツに留学,帰国して袁世凱のもとで新軍の創設につとめた。竜の王士珍,狗(いぬ)の馮国璋と並べて虎の段祺瑞と称された(北洋三傑)。中華民国の袁大総統のもとで陸軍総長を連任して実力をたくわえ,袁世凱の死後,3度国務総理となり,4年間にわたって北京の政権を掌握した。段政権は,二十一ヵ条要求以上にひどい日華共同防敵軍事協定などとひきかえの西原借款に代表される財政援助で維持されてきた親日政権だったから,第1次大戦の終了後,安直戦争に敗れて退場することになる。のち,張作霖,馮玉祥の妥協策として臨時執政となったが(1924年11月~26年4月),実権はなかった。満州事変後の日本のかつぎだし工作には応ぜず,晩年は仏教を研究して,上海で病没した。
執筆者:狭間 直樹
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段祺瑞
だんきずい
Duan Qi-rui
[生]同治4(1865).3.6. 安徽,合肥
[没]1936.11.2. 上海
中国の軍閥。北洋軍閥の一人で安徽派の領袖。清末,袁世凱の部下となり,中華民国成立後は陸軍総長に就任。 1915年袁の帝制運動に反対して下野し,16年袁の死後内閣を組織して北京政府の実権を握り,国内の武力統一政策を推進。 17年日本の寺内正毅内閣の援段政策を機に日本との結びつきを強め,巨額の借款を獲得し (西原借款) ,日本の軍事的財政的援助により参戦軍3個師団を養成。 18年5月日中共同防敵軍事協定を締結するなど,自己の政権保持のため日本の政府,軍部に大きく依存するにいたった。第1次世界大戦後,直隷派の勢力が台頭するなかで学生や民衆の反段反日の風潮が強まり,20年の安直戦争で直隷派に敗れ,天津に一時引退した。 24年第2次奉直戦争後,奉天派 (張作霖) と国民軍 (馮玉祥) に推されて臨時執政に就任。 26年3月学生,民衆の請願団に発砲して多数の死傷者を出し (三・一八事件) ,同年奉国戦争により下野し,大連から天津,南京へと移り,上海で死去。
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段 祺瑞
だんきずい
1865〜1936
中華民国の軍閥政治家
安徽 (あんき) 省の出身。袁世凱の北洋軍閥に加わり,辛亥革命には袁とともに清帝の退位を要求。袁の死後,1916年安徽派の首領として国務総理兼陸軍総長となった。第一次世界大戦に対独宣戦を強行して免職されたが,張勲 (ちようくん) の清帝復位運動を鎮圧してまた総理に復帰し,日本から西原借款を受けた。しかし南北統一に失敗して辞職。1918年国務総理に再復帰し,安直戦争・第2次奉直戦争ののち,張作霖・馮玉祥 (ふうぎよくしよう) の支持で24年臨時執政となったが,26年引退した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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段祺瑞 だん-きずい
1865-1936 中国の軍人,政治家。
同治4年2月9日生まれ。北洋軍閥安徽(あんき)派の首領。袁世凱(えん-せいがい)のもとで中華民国陸軍総長となる。袁の死後,国務総理をつとめ,西原借款(しゃっかん)などの援助をうけ親日政策をとる。1920年安直戦争に敗れ,天津にうつる。1924年張作霖(ちょう-さくりん)と馮玉祥(ふう-ぎょくしょう)に擁立され,臨時執政となるが,1926年両派の対立で辞職。1936年11月2日死去。72歳。安徽省出身。字(あざな)は芝泉。
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段祺瑞(だんきずい)
Duan Qirui
1865~1936
中国の軍閥の一人。安徽(あんき)省合肥県の人。袁世凱(えんせいがい)のもとで活躍し,民国では安徽派の領袖として,日本の支援をたのんで北京政府を牛耳(ぎゅうじ)った。その間,陸軍総長,国務総理などを務めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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段 祺瑞
だんきずい
1865〜1936
中華民国の軍閥政治家
北洋軍閥安徽 (あんき) 派の首領で,袁世凱 (えんせいがい) の腹心の部下。第一次世界大戦中,寺内正毅内閣から西原借款などの援助をうけ,日本の中国進出を許す。1924年張作霖・馮玉祥 (ひようぎよくしよう) らに推され臨時執政に就任したが ‘26年失脚。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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段 祺瑞 (だん きずい)
生年月日:1865年3月6日
中国の軍閥
1936年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の段祺瑞の言及
【広東政府】より
…共和制の中華民国は,主権在民の〈臨時約法〉(憲法にあたる)と民選の国会をもったが,軍閥の袁世凱,張勲らはそれを破壊した。張勲の復辟失敗後,北京政府をにぎった段祺瑞がやはり約法と国会を回復しなかったので,孫文は〈護法〉(臨時約法擁護)の旗印をかかげて,彼と行動をともにした国会(非常国会)を法的基盤に広州で中華民国軍政府(第1次広東政府,1917年9月~20年10月)を組織し,大元帥に就任した。孫文は西南軍閥の武力にたより,西南軍閥は北洋に対抗するために孫文の名声と護法の正統性を利用したのである。…
【護法運動】より
…中国,第1次大戦期半ばに,孫文が展開した政治闘争。戦争の長期かつ大規模化は,中国にも参戦問題をもたらし,日本の強力な援助の下に権力拡大をねらう段祺瑞一派の積極参戦論と,これに反対する諸勢力の慎重論との対立は,日ごとに深刻になっていった。この間隙をぬって,1917年7月1日,張勲が清朝復辟のクーデタを起こした。…
【中華民国】より
…民国を帝国にあともどりさせることは前皇帝にも軍閥の親玉にももはや不可能だった。袁世凱の死後,北京の中央政権を掌握したのはその右腕,段祺瑞であった。段祺瑞は日本を後ろだてに袁世凱の衣鉢を継ごうとしたが,護国戦争を経る間に各地の軍閥の地盤強化がすすみ,もはや袁世凱時代ほどの統一も図れなかった。…
【北洋軍閥】より
…それは[袁世凱]の新軍創建に起源し,新軍の拡充にともない,1905年(光緒31)には〈北洋6鎮(鎮は師団)〉を数えるにいたった。袁は新軍創建にあたり北洋武備学堂(李鴻章が1885年に天津に創立した兵学校)出身の段祺瑞,馮国璋らを抜擢した。かれらは実戦経験豊富な淮(わい)軍の旧式将領から軽視されてきたため,袁に恩義を感じて忠誠に励むこととなった。…
※「段祺瑞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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