告村
つげむら
[現在地名]芦北町告
球磨川支流の告川に沿って、上流から上告・中告・鎌瀬の集落がある。人吉藩と熊本藩の境界の南部は球磨川と告川であったため、告村は両藩の出入口として重要視された。中世には葦北郡も相良氏領であったため告は通過点にすぎなかったが、相良氏領が球磨一郡に固定してからは重要度を増した。
慶長五年(一六〇〇)と思われる一〇月二一日付の加藤清正書状(加藤清正文書集)に「求广口出入一切無之様ニ相留候由尤候、与左エ門方へも左様之通可申遣候事」とあり、佐敷城代加藤与左衛門重次へ球磨口の封鎖を命じ、なんらかの形でこの当時から当村に番人が置かれていたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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