北町
きたまち
[現在地名]三春町北町・燕清水・亀井・烏帽子石・仁井町・清水畑
三春城下六町の一つ北町を中心とする行政地区。平姓三春田村氏が永正子年(一五〇四または一五一六)に守山(現郡山市)から移し、城北の地を北町としたという。宝永四年(一七〇七)の三春城下絵図(浪岡家蔵)を諸書によって補って記せば、北町は大町四辻から北町入口中ノ木戸まで二町六間、道幅四間半の両側町が町屋敷、中ノ木戸から亀井谷通北町出口小橋までは家中屋敷。相馬への街道沿いの坂町。亀井は家中屋敷。亀井のうち木戸外を御籏町といい、籏組屋敷があった。中ノ木戸から荒町へ通じる通称切通しは松下氏時代末期に開かれ、中ノ木戸脇には火除けの空地が設けられた。市日は月の二七日であった。正保二年(一六四五)の屋敷数四七・家数七九・人数二八九、天明四年(一七八四)の人数二三三、文化五年(一八〇八)の戸数四七(家持四〇・屋敷借一・店借六)、人数一九四、安政五年(一八五八)の人数二三五、慶応四年(一八六八)の人数二三八であった(三春町史)。
北町
きたまち
[現在地名]延岡市北町・中央通
中町の北、大手(京口)門の堀を起点とする東西道に沿う両側町。北は五ヶ瀬川に接し、同川および中町を結ぶ南北道沿いに横町と西横町がある。延岡城下七町の一。高橋元種が慶長八年(一六〇三)延岡城(県城)を築いた際に形成された(延陵世鑑)。有馬家中延岡城下屋敷付絵図(明治大学刑事博物館蔵)では、堀と五ヶ瀬川に接して北西角に白道寺(のち三福寺)の広大な敷地があり、堀沿いに南北の今町がある。東は板田橋(百間橋)からの南北道に接し、町裏に誓敬寺(のち大貫村に移転)がある。東側は船倉(舟倉町とも)で、当町船倉もあった。正徳三年(一七一三)の御城并町在所々覚書(内藤家文書)によれば、町の長さ東西一三八間・道幅一間半、横町は南北一九間半・道幅一間、西横町(前掲絵図では今町)は南北一〇〇間・道幅三間。板田橋は寛文七年(一六六七)当町と五ヶ瀬川北岸の元町・紺屋町などを結んで架設された。
北町
きたまち
[現在地名]須賀川市北町・上北町・長禄町・栄町・山寺道・塚田・池下・台など
須賀川宿四ヵ町の一で、宿の北端に位置し、北の出口に黒門がある。奥州道中に沿う両側町。二階堂居城時代須賀川城絵図(須賀川市立博物館蔵)によると、須賀川城の北、搦手の当地一帯には職人・奉公人居住町家が並ぶ。須賀川城落城後、天正一八年(一五九〇)からの奥州道中整備に伴い下宿村の町家を移住させて近世の当町が形成された(野川本「藤葉栄衰記」)。慶長三年(一五九八)当町に問屋場が設けられ、毎月二三日・二八日に市が開かれた(「定条々」福島県史など)。
北町
きたまち
[現在地名]四日市市北町
三滝川の南にあり、町の中央を東海道が南北に通る。四辻を隔てて南に南町、西は西町・久六町、東は立町・八幡町。旧版「四日市市史」によれば古く北市場と称され、寛文三年(一六六三)以降北町となった。東海道の往還の東、建福寺の北から三滝川にかけては北町地内であったが、文化年間(一八〇四―一八)よりその家数にちなんで十軒家町(十建町)といわれ、天保年間(一八三〇―四四)以降はさらに発展して三つに分れ、十建屋・伝馬町・建福寺町と通称されるようになったという。
江戸時代は四日市宿の中心として本陣・脇本陣が置かれ旅籠も多く、南町とともに旅籠町とも称された。
北町
きたまち
[現在地名]上山市北町・松山二―三丁目・石崎一―二丁目・河崎二―三丁目・八日町・東町・美咲町一―二丁目・長清水一―三丁目・鶴脛町二丁目・栄町一―二丁目・北町一―二丁目・四ッ谷一―二丁目・弁天一―二丁目・大石二丁目・朝日台一―二丁目・矢来一―二丁目・同四丁目・石堂・南町・弁天
古くは三千刈(現四ッ谷)にあった集落が農業の発達により東・南方に広がり、現在の軽井沢や御井戸丁付近まで移住、鶴脛温泉が発見されると、温泉湧出口付近にも居住するようになった。
北町
きたちよう
上京区御前通西裏上ル下立売上ル
町の中央を南北に天神通(旧西靫負小路)が通る。西は天神川。平安京の条坊では右京一条二坊一保一町から二町の西側及び七町の東と北側から八町にかけての地で、官衙町の一つ「兵庫町」と「隼人司」の跡地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以降は、鷹司小路西靫負小路の地。
寛永一四年(一六三七)の洛中絵図に「北町」とあり、町屋は現町域の南にある。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は町の北を「三町目」、南を「北町」と記し、北町の項で「此町西がは安楽寺と云天神御供所有、同町南西角文子天神社有」、三町目の項で「此町に老松社有、此南を総大将軍村と云」と述べる。
北町
きたまち
[現在地名]大分市大手町三丁目
長池町東部の北側に並行に延びる町。西は善巧寺正面、東は船入の入口、北は中間部屋や侍屋敷。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬五三間・南頬四八間。南側の町は南北入一五間で、北側の町は北から東の船入の入口にかけて石垣が築かれる。北は通りを隔てて空地がありその北側を先述の石垣がめぐる。正保府内城絵図では、慶長府内絵図の空地の場所に東西二ヵ所の「御目付屋敷」が記される。元和九年(一六二三)越前福井藩主松平忠直(一伯)が豊後に配流となり、萩原村の館に置かれた。幕府は目付として二名を同行させ、東西の二屋敷を居館とした(一伯公伝記)。慶安三年(一六五〇)の忠直の死去に伴い府内目付は廃止された(→府内城跡)。
北町
きたまち
[現在地名]亀岡市北町
城郭の北西、西町北端を少し東折し、西門前から雑水川の緑橋詰までの京街道筋の町並。緑橋を渡ると安町へ続く。
地内は荒塚村分であるが住民は追分村の住民である。築城に際し、最初余部村住民を移し町並をつくらせたが、田地に遠いので訴訟をしてもとへ帰され、代わって追分村から移住させられた(「亀山御城之由来」永光家蔵)。町並の長さ一一一間。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数四八。
町の中ほど西側に銀札会所がある。
北町
きたまち
[現在地名]三田市三田町
本町の北の通り、武庫川沿いの道の両側に町屋が並ぶ町人町。もと火気に注意を要する鍛冶屋を集住させていたことから鍛冶屋町とも(宝永頃の「三田絵図」勝本家蔵)。本町と同時期に成立。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に北町とみえ、北東端の武庫川端に光明寺がある。札の辻からの道(丹波への道)によって東西に分れる。本町同様江戸中期頃までに東組・西組に各一名の町年寄が置かれた(鍵屋文書)。
北
町
きたさやちよう
[現在地名]中央区日本橋本石町一丁目
本両替町の南にある両側町。西は堀端、南は日本橋川河岸通りの北鞘町河岸、東は品川町。刀剣の鞘を作る職人が居住していたことによる町名で、刀剣の出来合いを売る家もあった。京橋の南鞘町と区別するため北の字を冠した(「続江戸砂子」など)。寛永江戸図では単に「さや町」と記載されているが、寛文新板江戸絵図に至って北鞘丁となっている。安永三年小間附町鑑によれば一二五間三尺五寸の公役金を負担。名主は本両替町と同じ。北鞘町河岸は一石橋と品川町裏河岸の間に位置する。寛永江戸図、承応江戸絵図に「北かし」、明暦三年(一六五七)の新添江戸之図に「きたかし」とあり、元禄三年(一六九〇)の江戸大絵図では「まきかし」となっているが、明和七年(一七七〇)の吉文字屋版切絵図以降は北鞘町のうちとする。
北町
きたまち
[現在地名]柳川市稲荷町
南町の北、沖端川の引込みの北岸に面する東西の通りを中心とした町。西は端地村。年不詳の柳川城下絵図・沖端北部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)には、通りの北側に家並が描かれ片側町であった。通りの西端には火番所と木戸が描かれ、正段通へとつながっている。寛政二年(一七九〇)の沖端町絵図には「西北町」と記される。
北町
あしきたまち
面積:二〇一・六四平方キロ
葦北郡のほぼ中央部に位置し、北は田浦町と八代市・八代郡坂本村、東は球磨川を境界に球磨郡球磨村、南は津奈木町と水俣市に接し、北西は八代海(不知火海)を挟んで天草郡に対する。町域の七五パーセントは山地で占められ、佐敷川と湯浦川流域および球磨川流域にほとんどの耕地と集落がある。海岸部はリアス状をなして景観に富み、一帯は芦北海岸県立自然公園に指定され、無霜地帯のため甘夏柑の特産地としても有名。佐敷地区を中心とする海岸一帯を万葉史跡野坂の浦とする説もある。
北町
きたまち
[現在地名]米沢市春日三丁目
長町の北に位置する土橋町(武家町)の北、米沢城下北端に位置する町人町。脇町一三町の一。米沢街道の城外への出入口一二口の一で、北町番所が置かれていた。松川から取水した小川が北端でよぎり、同川には石橋が架かり、土堤が築かれ柵がめぐらされていた(弘化三年水帳ほか)。正保城絵図(内閣文庫蔵)ではまだ当町一帯は描かれていない。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数二四、うち町役免除屋一(検断屋敷)。役屋は二三で、年貢は銭二三〇目であった。
北町
きたまち
[現在地名]宇和島市本町追手一―二丁目・大宮町一―二丁目
辰野川の中流域に沿い、毛山村を含んで形成された町。小字に立町・サガリ・内川原・西江寺下・花売横丁・立正寺前・真教寺前などがある。
元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図には御足軽町・内河原町とある。
北町
きたまち
[現在地名]津山市北町
侍屋敷町で、城の北辺にあったため御北と称し、明治初年に北町と改めた(津山誌)。東は宮川を隔てて上之町、西は椿高下、北は山北村。町は東西の通りで区画され、やや西寄りに城の北門が通じていた。町絵図によると町の北端の山北村との境には東西に松並木道があった。町名は森家侍屋敷割帳(弓斎叢書)にはみえないが、正保城絵図に侍屋敷と記されるので、森氏時代初期に成立したと推定される。
北町
きたまち
[現在地名]南陽市赤湯
清水町から北東に続く街村状の町で、正式には赤湯村のうち。温泉街の水源地として利用されていた駄子水・弘法清水、源義綱が矢で掘ったという矢立の水、その他の清水が湧いて赤湯七水のなかに数えられている。北が山地、南の前面が開けているので、これらの清水を利用して古くから居住者があったとみえ、石器や土器も多く発見され、古墳も大沢山に多かったが、ブドウ園開墾のため乱掘されてしまった。中山城(現上山市)城代横田利信は、北町に接する大谷地を開墾し、寛永一五年(一六三八)の赤湯村検地帳(南陽市役所蔵)に、横田開または横田式部開と記された田地が、つきの木沢に一町三反余・畑六反余がみられる。
北町
きたまち
下京区烏丸通六条下ル
南北に通る烏丸通(旧烏丸小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では左京七条三坊四保九町東北隅と同一六町西北隅にあたり、平安中期以降は六条烏丸小路の地。平安時代は神祇伯大中臣輔親の邸宅、六条院の地であった(拾芥抄)。応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)には「六条烏丸南西頬」の地に「道金」の名がある。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図では「烏丸一丁目」、寛文後期洛中洛外之絵図では「門跡寺内」、寛文末洛中洛外大図には「堂前壱丁目」とみえ、元禄末期洛中絵図及び宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図で「北丁」となる。
北町
きたまち
[現在地名]水口町城東
天神町の東端に直交し、東海道を挟み南北に延びる両側町。町名は慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)にみえるのが早く、同五年以降順次町並を形成したものと思われる。当初町並は東西に直線的に延びる東海道の道筋に沿っていたが、天和二年(一六八二)水口藩の成立に伴い東海道が当町の東端より北へ迂回させられ、町並もこれに沿って移った。町西側は武家地で、東側河内町と接する所には天王口門が置かれた。
北町
きたまち
[現在地名]和歌山市北町
北大工町北端を東西に通る横町で、本町三丁目と四丁目の間を西に入った筋。町の西は鷺森別院で、北町筋はその参道ともなっていた。「続風土記」は「天正年中国城の北の釘貫村を此地に移して市
を開かしむ、城の真北なるを以て北町と号く」と記す。「紀藩街官司秘鑑」には「北町より字治江出候所ヲ御坊竈屋町と唱」などとあり、鷺森御坊に関係の深い町であったと考えられる。
北町
ほくまち
[現在地名]和歌山市湊北町一―三丁目
北の本町に並行する町人町で、東から一―三丁目に区分される。「続風土記」に「又干鰯屋町ともいふ、旧は一町目を魚の店といひ、二町目・三町目を福町といふ」とある。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図でも北町二丁目が福町一丁目、北町三丁目が福町二丁目となっている。
北町
きたまち
[現在地名]相馬市中村 北町
桜小路北端から西に折れた所にある東西一九六間の通りで、北を二六八間の堀が限る。小人(白徒)の居所として設定されたが、明暦年間(一六五五―五八)に小人五三戸を新小人町(御小人町)に移し、跡地に上士一八人の屋敷を置いた。
北町
きたちよう
上京区御前通今出川上ル二丁目
北野天満宮の北に位置し、町のほぼ中央を南北に御前通が通る。
平安時代、当町東部より老松町に至る地域は乳牛院の原と称され、天皇供御の乳牛の飼育をつかさどったところという(西宮記)。
町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「北野北丁」とあり、元禄末期洛中絵図には「北町」と記す。
北町
きたまち
延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図(豊田市史)によれば、当時新町と称し、北は竹生町に接する。西には浄土宗の本然山浄久寺がある(七州城沿革小史)。当時の家数は三四で、すべて萱屋で座敷持が一軒ある。
北町
きたまち
[現在地名]滑川市北町
北陸街道の北に位置し、北は富山湾に面する。南は中町、西は武平太町。宝永年間(一七〇四―一一)に武平太町に次いで成立したと伝える(滑川町誌)。
北町
きたまち
[現在地名]松任市北町
東三番町の北方一町余に位置。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)では該当地域に数軒の百姓家が描かれているが、町名は記されていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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