葦北郡
あしきたぐん
面積:二六七・六一平方キロ
田浦町・芦北町・津奈木町
熊本県南部にあり、南は水俣市で、その南は鹿児島県である。東は球磨郡球磨村に接し、その北域では球磨川が境界をなす。北は八代市と八代郡坂本村に接する。西は八代海(不知火海)に面し、リアス海岸をなす。郡全体はほとんどが低山地で占められ、郡の最高峰大関山は標高九〇一・九メートル。小河川の沿岸部に開けた低地は、海岸部まで迫る山により寸断され、交通の便は悪い。海岸部を縦断する薩摩街道(国道三号)には、赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠などの「三太郎の嶮」がある。ほぼこの道に沿って国鉄鹿児島本線が通る。佐敷川に沿って東に登り、球磨川畔に至る道は、かつての人吉藩の参勤交代路で、相良往還ともよばれた。旧葦北郡は現郡域のほかに現在の水俣市全域、八代市南部、八代郡坂本村の一部を含んでいた。
「日本書紀」景行天皇一八年四月一一日条に「葦北の小嶋に泊りて、進食す」とあり、この時島には水がなかったが、神に祈って泉を得たので水嶋と名付けたという。葦北郡の名は養老七年(七二三)の平城宮出土木簡にある。「和名抄」の葦北郡には葦北・桑原・伴・野行・巨野・川田・水俣の七郷が記される。
〔原始・古代〕
原始時代の遺跡は発見例がきわめて少なく、河口近くや山間の小盆地に遺物散布地などが確認されているが、発掘された例は少ない。芦北町大野のテノンクボ遺跡からは多量の海産の貝が発見されており、縄文時代の海岸線を考えるうえで貴重である。古墳時代のものとして田浦町にセベット古墳群・鬼塚古墳群があるが、詳細は不明。芦北町の宮浦地下式積石墓は隼人の墓ともいわれ、南方との関係が考えられる。古墳時代末期、大和政権下に統一される前には葦北国があり、景行天皇の時に吉備津彦命の子である三井根子命を初めて葦北の国造に定めたという(国造本紀)。葦北国は今の葦北郡より北方の、八代市の南部をさすという説もある。「日本書紀」景行天皇一八年条に次のようにある。
<資料は省略されています>
磐井の反乱などもあってその後対朝鮮関係は緊張し、任那日本府の滅亡後、百済にあって外交折衝をしていた葦北出身の高官達率日羅が呼返されている。「日本書紀」敏達天皇一二年条に「火葦北国造刑部靫部阿利斯登の子、臣、達率日羅、天皇の召すと聞きたまへて、恐り畏みて来朝り」とあり、百済討伐の議に参加したが、そのため百済の刺客に殺された。刺客と日羅の屍は葦北君へ引渡された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 