人吉藩
ひとよしはん
肥後国(熊本県)球磨(くま)郡1郡と隣接の日向(ひゅうが)国(宮崎県)の一部を領有し、人吉城を居城とした藩。表高は2万2100石余の外様(とざま)小藩。中世鎌倉期地頭職(じとうしき)として相良(さがら)氏がこの地を領有して以来、廃藩置県まで代々継いだので、相良藩とも呼称する。第20代相良長毎(ながつね)は、豊臣(とよとみ)秀吉によって旧領(球磨郡本領)を安堵(あんど)され、ついで関ヶ原の戦いでは、のちに東軍についたことで旧領安堵された。1656年(明暦2)、椎葉山(しいばやま)事件(那須(なす)一族十三人衆が同族間の争いが因で討滅された)の結末として、日向国米良(めら)谷(児湯(こゆ)郡)と椎葉山(東臼杵(ひがしうすき)郡)が相良氏の支配地に加えられ、領域が確定した。実高は、1634年(寛永11)の「郷村高辻帳(たかつじちょう)」によると、本田高2万2165石、新田高2万1076石の計4万3241石、村数35、谷数6の計41であるが、本田高のなかに茶、漆、桑(1064石)があり、また新田高が大きいように、山間小盆地の耕地や山陵地の小庭作(こばさく)(焼畑)が非常に多かった。さらに貢租には年貢、夫役のほかに雑公事(ぞうくじ)(田畑の雑産物、山林原野の全生産物、それらの加工品、30種以上に及ぶ)をとる、中世的な年貢形態が続いていた。このような低生産力地帯であったため、農民は自らの手で開発を進め、上球磨地域では、百太郎溝(ひゃくたろうみぞ)(全長18キロメートル、水田1400町)や幸野(こうの)溝(全長18キロメートル、1210町)などの水路が開削された。さらに町人林正盛は1662年(寛文2)に独力で急流の球磨川を開削して有明海から人吉城下への舟運を可能とし、球磨産品の上方(かみがた)市場への出荷が可能となった。
一方、中世以来の伝統は、重代譜代(ふだい)家臣や一族門葉層を多く輩出し、彼らを支える武士階層も多かった。武士層は、城下士以外はすべて在郷(外城(とじょう)=山城の名残(なごり))したが、その数は全人口の約3分の1にも達し、名子(なご)を抱えた伝統的・地主的存在でもあった。このような家臣構造であったため、政治的にも門閥党争が多く、初期の相良清兵衛事件、御下(おしも)の乱、宝暦(ほうれき)期(1751~64)の御手判(おてはん)事件と竹鉄砲事件(藩主暗殺計画)などが発生し、また幕末の藩主交替の頻発(12年間に4人死亡)、茸山(なばやま)騒動(百姓一揆(いっき))、丑歳(うしのとし)騒動(兵制改革をめぐる家中対立)と、領内を二分する大事件が相次いで起きた。藩政改革も文政(ぶんせい)期(1818~30)に家老田代政典(まさすけ)により着手されはしたが、茸山騒動によって挫折(ざせつ)する状況であった。加うるに、1862年(文久2)人吉城と城下町を総なめにする寅助(とらすけ)火事が起こり、明治維新を政治的混乱のなかで迎えることとなった。なお領内は戦国期以来、一向(いっこう)宗(浄土真宗)禁制であった。71年(明治4)廃藩置県により人吉県となり、八代(やつしろ)県、白川県を経て76年熊本県となった。
[森山恒雄]
『『新編物語藩史 第12巻』(1977・新人物往来社)』
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人吉藩【ひとよしはん】
肥後国人吉(現熊本県人吉市)に藩庁を置いた外様小藩。中世以来の領主相良(さがら)氏が藩主で,初代藩主長毎(ながつね)から廃藩置県時の頼基(よりもと)まで16代を数え幕末に至った。表高2万2100石,ほかに新田高が2万余石あった。球磨(くま)郡と日向国米良(めら)山を領し,1656年からは椎葉(しいば)山を預地(あずかりち)とした。天保期(1830年−1844年)の家臣団をみると,知行取は城下士152人・外城(とじょう)士29人,扶持米取侍は城下に147人,外城に238人で,郷士(ごうし)も多数存在した。長毎は人吉城や城下町を整備し,藩政の確立に努めた。1664年に球磨川水路が開削され,18世紀に入ると新田開発が進んだ。一方,1704年に利根川・荒川のお手伝い普請を命じられて財政が悪化,1756年には家老と一門の対立による御手判銀事件が起こった。その後天災も重なり,財政はなかなか再建されなかった。幕末には1862年の寅助火事,兵制改革をめぐる丑歳騒動などがあった。
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人吉藩 (ひとよしはん)
肥後国(熊本県)人吉に藩庁を置いた外様小藩。藩主相良氏は鎌倉期に人吉荘の地頭職を得,戦国期には一時球磨,芦北,八代の3郡を領有したが,島津氏の勢力伸張に屈した。20代長毎(ながつね)は島津氏に属したが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐時に下って球磨郡の旧領を安堵され,ついで関ヶ原の戦には東軍徳川方に内応して命脈を保った。長毎は人吉城の修築,城下町形成など藩政の確立に努めた。近世の人吉藩は球磨郡と日向の米良山を領し,椎葉山を管理した。表高2万2100石,実高5万2900石余。人吉藩の貢租の特色は茶,漆,紙,熊の胆(い)など畠・山林産物などへの公事の種類が多い点にあり,藩政初期は財政は比較的豊かであった。1664年(寛文4)には球磨川水路が開かれ,18世紀初頭には百太郎溝,幸野溝の開通により新田開発が進んだ。1704年(宝永1)幕命による関東の利根川,荒川の改修工事手伝いによって藩財政は急激に悪化,そのうえ,たびたびの天災が重なって財政再建もままならなかった。幕末には1862年(文久2)の寅助火事,兵制改革をめぐる丑年騒動など,内憂外患のうちに明治維新を迎えた。
執筆者:松本 寿三郎
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ひとよしはん【人吉藩】
江戸時代、肥後(ひご)国球磨(くま)郡人吉(現、熊本県人吉市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は習教館、郷義館。鎌倉時代から相良(さがら)氏の領地で、1587年(天正(てんしょう)15)に20代当主の相良頼房(よりふさ)(長毎(ながつね))が豊臣秀吉(とよとみひでよし)から所領を安堵(あんど)され、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったことから命脈を保つことができた。石高は2万2100石。初代藩主の長毎は人吉城の改修、城下町の形成などにより藩政の基礎を築き、以後明治維新まで相良氏15代が続いた。1662年(寛文(かんぶん)2)に球磨川水路が開かれると、茶、漆(うるし)、紙などの特産品を上方(かみがた)に出荷できるようになり、初期の藩財政は安定した。しかし家臣団の対立による抗争が頻発し、幕末には百姓一揆の茸山(なばやま)騒動、兵制改革をめぐる丑(うし)の年騒動、寅助(とらすけ)火事など政治的混乱のなかで明治維新を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県により人吉県となり、その後、八代(やつしろ)県、白川県を経て、76年熊本県に編入された。◇相良藩ともいう。
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人吉藩
ひとよしはん
相良 (さがら) 藩ともいう。江戸時代,肥後国 (熊本県) 球磨 (くま) 郡人吉地方を領有した藩。鎌倉時代以来の肥後の豪族相良長毎が,関ヶ原の戦いで東軍についたため2万 2100石の所領を安堵され立藩,以後廃藩置県にいたった。外様,江戸城柳間詰。
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人吉藩
肥後国、人吉(現:熊本県人吉市)に居城を置いた外様の小藩。球磨郡1郡と、日向国(宮崎県)の一部を領有した。鎌倉時代からの領主である相良氏が所領を安堵されて成立。廃藩置県まで存続した。人吉城は国指定史跡。
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世界大百科事典(旧版)内の人吉藩の言及
【肥後国】より
…天草郡(3万3846石余)は唐津藩主[寺沢広高]に与えられた。これによって,熊本藩,[人吉藩],天草郡の3藩領ができた。慶長年中(1596‐1615)肥後国には隈本(熊本),関,内牧,水俣,佐敷(以上加藤領),宇土,八代,矢部(以上小西領),人吉,湯前,大畑(おこば)(以上相良領),富岡,栖本,久玉(以上天草郡)の14城があったが,1615年(元和1)の一国一城令によって破却され,熊本,八代,人吉,富岡の4城となった。…
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