朝日日本歴史人物事典 「和気貞説」の解説
和気貞説
生年:生年不詳
平安後期の宮廷医。医家中原氏の出身で,和気相永の養子。和気貞相次いで丹波重長の門に入って医を学んだ。保元2(1157)年内蔵助。宇佐祠官に諸医が癩の誤診断を下したのを覆し,二条天皇から賞されて和気姓を賜る。また安元2(1176)年後白河上皇の瘡の治療に臨み,丹波憲基が鹿角,大黄を処方したが癒えず,灸を行おうとしたのに反対し,膏薬を付けることを主張。受け入れられ,3日にして治癒したという。諸陵頭に任ぜられ,治承2(1178)年には従四位下,諸陵・陰陽頭で長門介を兼ねた。
(小曾戸洋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報