和気貞説(読み)わけのさだとき

朝日日本歴史人物事典 「和気貞説」の解説

和気貞説

没年治承3.1.5(1179.2.13)
生年:生年不詳
平安後期の宮廷医。医家中原氏の出身で,和気相永の養子。和気貞相次いで丹波重長の門に入って医を学んだ。保元2(1157)年内蔵助。宇佐祠官に諸医が癩の誤診断を下したのを覆し,二条天皇から賞されて和気姓を賜る。また安元2(1176)年後白河上皇の瘡の治療に臨み,丹波憲基が鹿角,大黄を処方したが癒えず,灸を行おうとしたのに反対し,膏薬を付けることを主張。受け入れられ,3日にして治癒したという。諸陵頭に任ぜられ,治承2(1178)年には従四位下,諸陵・陰陽頭で長門介を兼ねた。

(小曾戸洋)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和気貞説」の解説

和気貞説 わけの-さだとき

?-1179 平安時代後期の医師
和気貞相(さだすけ),丹波重長(しげなが)にまなび,侍医となる。宇佐神宮祠官(しかん)の癩(らい)(ハンセン病)の疑いをはらし,二条天皇から和気姓をあたえられた。安元2年後白河上皇の瘡(かさ)(できもの)の治療をしている。治承(じしょう)3年1月5日死去。本姓は中原。

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