和珥部君手(読み)わにべのきみて

朝日日本歴史人物事典 「和珥部君手」の解説

和珥部君手

生年生没年不詳
壬申の乱(672)で大海人皇子(のちの天武天皇)方で活躍した豪族。尾張国知多郡(愛知県)を本貫とする。和爾部,丸部とも書く。姓は臣。天武1(672)年6月,大海人皇子吉野(奈良県吉野町)から東国に入るのに先行して美濃(岐阜県)に入り,安八磨郡湯沐令の多品治に同郡の兵をもって,不破関を塞がせた。その後,村国男依らと共に数万の兵を率いて不破から近江に攻め入り,大海人側に勝利をもたらした。死没時直広壱を贈られた。没年は文武1(697)年か。大宝1(701)年功封80戸を賜り,4分の1を子に伝えることを許された。霊亀2(716)年贈直大壱,子に賜田のことがあり,天平宝字1(757)年,功田8町を二世に伝えることを認められた。『釈日本紀』所引私記が引用の「和迩部臣君手記」は壬申の乱の従軍日記。<参考文献>直木孝次郎『壬申の乱』

(狩野久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和珥部君手」の解説

和珥部君手 わにべの-きみて

?-697? 飛鳥(あすか)時代の武人
壬申(じんしん)の乱(672)に際し,大海人(おおあまの)皇子(のちの天武天皇)の命で美濃(みの)(岐阜県)不破道をふさぎ,ついで村国男依(おより)らとともに不破から近江(おうみ)(滋賀県)に攻めいり,大友皇子を敗走させた。功により勤(ごん)大壱をあたえられた。文武天皇元年直(じき)広壱にすすみ,この時没したものと推定される。のちさらに直大壱を追贈された。氏(うじ)は丸部,和爾部ともかく。

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