第42代に数えられる天皇。在位697-707年。本名は軽(珂瑠),和風諡号(しごう)は天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおおじ)。天武天皇の孫。父は草壁皇子,母は阿閉皇女(のち元明天皇)。689年(持統3)7歳のとき皇太子であった父と死別。祖母の持統天皇の保護のもとで成長し,持統は697年2月,反対者を抑えて軽皇子を皇太子とし,同年8月に譲位,702年(大宝2)に没するまで文武の政治を助ける。文武は即位のとき15歳,藤原不比等の娘宮子を夫人(ぶにん),紀竈門娘(かまどのいらつめ),石川刀子娘を嬪(ひん)とし,宮子は首皇子(聖武天皇)を生む。事績としては刑部(おさかべ)親王,藤原不比等らをして大宝律令を作らしめ,701年に完成,翌年にかけて施行したこと,702年に33年ぶりに遣唐使を派遣したこと,705年(慶雲2)に中納言を置き,706年に官人考選の年限を短縮し庸を半減したことなどがある。また698年(文武2)に南西諸島に使者を派遣して領土を広め,702年に薩摩・多褹(たね)を征討した。その資質については《続日本紀》に,寛仁にして博く経史に渉り,射芸をよくしたとある。《懐風藻》に詩3編,《万葉集》に文武の作かとする歌1首がある。没後遺骸は火葬し,高市郡檜隈安古山陵に葬った。
執筆者:直木 孝次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
第42代天皇(在位697~707)。名は珂瑠(かる)。天武(てんむ)天皇の孫。草壁(くさかべ)皇子の第2子。母は天智(てんじ)天皇の娘阿閇(あへ)皇女(のち元明(げんめい)天皇)。697年2月立太子、同年8月即位、藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とする。ときに15歳。治世10年間のうちの前半は、祖母にあたる持統太上(じとうたいじょう)天皇が後見して政務一般を総覧したが、この時期には刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって律令編纂(りつりょうへんさん)の大事業がなされた。やがて令十一巻、律六巻が完成して、701年(大宝1)には年号を大宝(たいほう)と建元し、令・律は同年から翌年にかけて施行された。これがすなわち大宝律令であり、ここに名実ともに律令国家体制は確立したのである。しかし治世の後半には災害や飢疫の流行などによる世情不安から、いわゆる慶雲(けいうん)の諸改革を断行して、早くも律令制を軌道修正した。また平城京遷都を望んだが果たせず、25歳の若さで世を去った。御陵は奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の檜隈(ひのくま)安古(あこ)山陵。
[押部佳周]
683~707.6.15
在位697.8.1~707.6.15
軽(かる)(珂瑠)皇子・天之真宗豊祖父(あまのまむねのとよおおじ)天皇と称する。草壁皇子の子。母は天智天皇の皇女阿閇(あへ)皇女(元明天皇)。697年(文武元)15歳で皇太子となり,同年藤原宮で即位。701年(大宝元)大宝律令の制定により律令政治の基礎を固めた。707年(慶雲4)重病となり,母に譲位の意思を示して死去した。藤原不比等(ふひと)の女宮子を夫人とし,首(おびと)皇子(聖武天皇)をもうけた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新