喜志村
きしむら
[現在地名]富田林市喜志・平町一―二丁目・木戸山町・喜志町一―五丁目・宮町一―三丁目・粟ヶ池町・桜井町一―二丁目・川面町一―二丁目・通法寺町・西条町一―二丁目・中野町三丁目・中野町西二丁目・南旭ヶ丘町・旭ヶ丘町
石川郡に属し、南は中野村、東は太子村(現南河内郡太子町)、北は新家村・古市郡東坂田村(現羽曳野市)ほか。村域の大部分は北流する石川の西岸にあり、中央東寄りを東高野街道が通る。「日本書紀」安閑天皇元年一〇月条にみえる「桜井屯倉」は河内郡桜井郷(和名抄)に比定するのが通説であるが、石川郡に比定し、当地の桜井とする説もある。古くは支子の茅原とよばれたと伝える(大阪府全志)。中世岐子庄の地。俗に喜志の七郷といい、字地の宮・平・桜井・川面・大深・木戸山、および新家村をさす。川面と中野村との境に喜志(西条)城跡があり、馬場・大手の字名が残る。元弘二年(一三三二)楠木正成が設けたと伝え、北条高時の赤坂城(現南河内郡千早赤阪村)攻撃の際、畠山政高がここに拠って戦い敗れたという。宮と平の間、美具久留御魂神社北方の丘陵には北山城跡があり、付近の字を城の跡という。室町時代末期に畠山官八なる者の拠った城と伝える(大阪府全志)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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