富田林村(読み)とんだばやしむら

日本歴史地名大系 「富田林村」の解説

富田林村
とんだばやしむら

[現在地名]富田林市富田林町・ほん

石川郡に属し、北は新堂しんど村、西は毛人谷えびだに村、東は石川を挟んで山中田やまちゆうだ村。中世末、富田林御坊(現富田林興正寺別院)を核として建設された寺内町前身とし、周囲を土居で囲まれた町場を中心とした村であった。北西の村境を南北に東高野街道が通り、東西に、堺から平尾ひらお峠を越え大和に向かう富田林街道が通る。永禄三年(一五六〇)興正こうしよう(現京都市下京区)の証秀により、中野なかの・新堂・毛人谷・山中田の各村の協力を得て荒芝地が開発され、地名を富田林とし、御坊を中心に発展することになった。開発以来免租であったが、慶長一三年(一六〇八)片桐且元検地のさい証文を紛失していたため、以降有租地になったという(「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」京都大学蔵杉山家文書)。天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に一千五九七石二斗「とんた村四村」とあり、右のうちより三六一石八斗六升九合出米と注記される。この一千五九七石余は前掲四村の高であろう。慶長一三年の検地高は九三石余、反別六町六反余(天保一四年「村明細帳」杉本家文書)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳でも高九三石余、小物成として練屋(紺屋)役銀一〇〇匁、幕府領。元文二年(一七三七)の河内国高帳では九八石余、以降幕末まで高の変化なし。明暦二年(一六五六)京都所司代牧野親成領、寛文八年(一六六八)幕府領、同九年山城淀藩領、享保八年(一七二三)下総佐倉藩領、延享三年(一七四六)には幕府領。また安永三年(一七七四)から幕府領であったが(前掲村明細帳)、同六年ないしは七年大坂城代牧野貞長(常陸笠間藩)領となり、寛政二年(一七九〇)まで笠間藩領(笠間稲荷神社文書ほか)、幕末には幕府領。

宝暦三年(一七五三)・安永七年の村絵図(勝山家蔵)ほかによると、富田林寺内町の周囲には土居をめぐらして竹を植え、山中田坂・向田坂・西口・壱里山口に門が設けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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