日本歴史地名大系 「土々呂銅山跡」の解説 土々呂銅山跡ととろどうざんあと 宮崎県:東臼杵郡北方町北方村土々呂銅山跡[現在地名]北方町子曾木(そき)にある。延享三年(一七四六)と推定される延岡領銅錫鉛山覚書、同四年と推定される錫鉛銅山覚書(いずれも内藤家文書)によれば、延岡藩主有馬氏治世下において新庄久兵衛が開発し、その後金増吉右衛門が経営に当たったがうまくいかず休山した。寛保二年(一七四二)からは品川正兵衛が経営に当たり、少しずつ銅を産出したが、正兵衛が大坂へ上ったまま帰らないので、延享四年からは延岡町万屋甚兵衛が経営している。銅山経営は資金の調達が困難で、経営者は大坂まで銀子の工面に出向いたりしている。高千穂往還沿いの大木(おおき)から当銅山までの道筋は一〇町ほどと近いが、峻険な坂道のうえ道幅も狭く難所が多い。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by