北方町(読み)きたかたちよう

日本歴史地名大系 「北方町」の解説

北方町
きたかたちよう

面積:二〇〇・七〇平方キロ

東臼杵郡の北東部に位置し、北は北川きたがわ町、東は延岡市、南は門川かどがわ町・北郷きたごう村、西は西臼杵郡日之影ひのかげ町と境を接する。町域の大部分は山地で、農耕地は三パーセントほどにすぎない。北部には大崩おおくえ(一六四三・三メートル)を中心とする大崩山地、東部には行縢むかばき(八二九・九メートル)を中心とする行縢山地が連なり、南部には鞍岡くらおか地区を源流とする五ヶ瀬川が東流する。大崩山地は花崗岩中生代の四万十累層群の九州山地を突き破って噴出したもので、その南側に花崗斑岩の行縢山地が東西に帯状に展開している。五ヶ瀬川の両岸には阿蘇溶結凝灰岩が柱状節理の地形を呈している。集落は五ヶ瀬川流域や河岸段丘上、支流曾木そき川流域の平地に点在する。古来より五ヶ瀬川に沿って南方みなみかた(現延岡市)から七折ななおり(現日之影町)に抜ける高千穂往還が通っており、途中の当町八峡やかいには近世期に番所が置かれていた。現在は国道二一八号と第三セクター高千穂鉄道が並行した形で走行している。

五ヶ瀬川右岸の岩土原いわつちばる遺跡の第二文化層からは船野型細石核と土器が共伴して出土したことにより、旧石器時代後期から縄文時代草創期にかけての時代のつながりを示す遺跡として注目されている。同遺跡近くの笠下かさした遺跡は旧石器時代の石器をはじめ、縄文時代早期の焼石群や弥生時代の竪穴住居跡が混在して出土し、AT降灰以降の遺跡と考えられている。国道二一八号椎畑しいばたバイパスの工事建設に伴う発掘調査の結果、阿蘇溶結凝灰岩の台地上に確認されたのが矢野原やのはる遺跡であり、AT層の上下の層からは石器・剥片・細片などを含め約三千点が出土した。


北方町
きたがたちよう

面積:四・七四平方キロ

本巣郡の南東部に位置し、面積は狭いが郡の近世における行政的・経済的・文化的な中心地として歴史的伝統を誇ってきた。南は穂積ほづみ町、西は真正しんせい町、北は糸貫いとぬき町、東は岐阜市。東域を長良川支流の天王てんのう川、中央部を長谷はせ川、西境付近を糸貫川がそれぞれ南流し、標高一〇メートル前後の平坦地に立地。岐阜市と結ぶ名鉄揖斐いび線と並走する国道三〇三号が東西に貫通する。樽見鉄道と本巣縦貫道(国道一五七号)は西端をかすめて南北に走っている。糸貫川河川敷に明治製菓岐阜工場が昭和四六年(一九七一)建設され、医薬品を生産している。近年岐阜市近郊の町としてベッドタウン化が著しい。古代の官道東山道が町域を横断しており、条里遺構が高屋たかや地区に残る。


北方町
きたがたまち

面積:二七・三九平方キロ

杵島郡の北西部に位置し、北は馬神まがみ峠を境に多久たく市に接し、西は武雄市、南は白石町に接する。杵島山北面の鳴瀬なるせ山の一部と勇猛ゆうもう山はこの町に入る。

この地域は江戸時代初めは多久領で、石炭の採掘が行われた。のち一部は多久領から佐賀藩に上地されて佐賀本藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北方町」の意味・わかりやすい解説

北方〔町〕
きたがた

岐阜県南西部,濃尾平野北西部にある町。岐阜市の西隣に位置する。1889年町制。1955年生津村の一部と合体,1956年席田村の一部を編入。戦国時代に北方城が築かれ,江戸時代には北方戸田氏 5000石の旗本領陣屋が置かれた。その後郡役所の所在地,地方の中心町として発展。商業が中心。繊維・縫製,窯業などの工業も発達。古くから富有柿の産地。岐阜市,大垣市の近郊にあり,住宅地化が進んだ。円鏡寺楼門は国指定重要文化財。国道157号線が通る。面積 5.18km2。人口 1万8139(2020)。

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