日本大百科全書(ニッポニカ)「駕籠」の解説
駕籠
かご
乗り物の一種。形態は、人が乗るところを箱形もしくは円筒形につくり、その屋根に柄(え)を取り付けたものである。乗用部分の前後に人が立ち、柄を担いでいくようになっている。担ぎ手は通常2人だが、高貴な者の場合は前後に2人ずつ、計4人で担ぐこともある。すなわち、運搬の形態としては、肩担い運搬の「さしにない」に属するものである。
駕籠がいつごろから使用されるようになったのかは、かならずしも明確でない。すでに古代から使われていたとする説もあり、中世後期にはその形がほぼ定まったといわれる。もっとも盛んに使用されたのは江戸時代で、庶民にも広く普及していた。しかし、明治になって近代的交通機関が導入されると急激に衰え、いまでは観光用などにわずかに残されるのみである。代表的な例としては、香川県琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐう)の石段を上下する駕籠があげられるだろう。
駕籠は人力による乗り物だが、こうしたたぐいのものが、近世社会においてなお有力な交通機関とされていたのは、世界史的にみればむしろまれな例である。古代国家のように奴隷制を基礎とする社会では、人力による乗り物は一般的にみられたが、時代が下るにつれ、とくに西欧では車両が用いられるようになっていく。しかし、日本では車両の発達はほとんどみられず、幕末まで車両が乗用に供されることはなかった。人力による乗り物として普遍的なものは輿(こし)である。これは乗用部分の下部に柄を取り付けたもので、運搬形態は手持ち運搬に属し、重量負担力はさほど大きくはない。車両への移行がみられなかった日本では、人力によりながら、さらに負担力の大きなものを開発しなければならなかった。肩担い運搬は、手持ち運搬に比べれば重い物を運ぶことができ、しかも持続性がある。ここに、駕籠が生み出される必然性があったものと思われる。
駕籠は通常2種に分類され、一般的なものは「駕籠」、高級なものは「乗物(のりもの)」とよばれた。前者のうち、もっとも簡素なものは本体、柄ともに竹でつくり、これが駕籠の原初形態を示すものと思われる。近世に使用されたものでは、山駕籠が代表的な例としてあげられる。これは、人が座る上に屋根をかけただけで、側面には覆いもかけられていない。文字どおり山道で使用された。竹を円筒形に編んだものは鶤鶏(唐丸)(とうまる)駕籠とよばれ、罪人の護送に用いられた。その形が鳥籠(とりかご)に似ていることから生じた呼び名らしい。四つ手駕籠は、山駕籠の形態を基本とするが、前後左右に茣蓙(ござ)などの覆いをかけ、雨露がしのげるようになっている。主として江戸の庶民に用いられ、町駕籠、辻(つじ)駕籠などともよばれた。京、大坂でも同種のものが使われたがこれは「京四つ路(じ)」とよばれる。四つ手駕籠より前後の造りはていねいだが、左右の覆いはやはり茣蓙であった。四つ手駕籠、京四つ路になると、柄は木製となってくる。本体まで木製としたのは法仙寺駕籠(宝仙寺とも書く)で、比較的富裕な町人が用いた。四方を板張りとし、小窓を設けて簾(すだれ)を張る。春慶(しゅんけい)塗などがなされて、装飾にも意が凝らされたものとなった。
乗物と駕籠を厳密に区分するのはむずかしいが、乗物はより居住性、装飾性が高められ、身分の高い者が用いたものとされている。一つの目安として、側面に戸が取り付けられているものは、おおむね乗物とみなされたようである。引き戸で、これを開けて乗り降りした。将軍が用いたものは、乗用部分を網代(あじろ)張りとして溜塗(ためぬ)りにし、柄は黒塗りとする。公家(くげ)もほぼ同じものを用いた。官僧も同種のものを使用したが、溜塗りではなく朱塗りとされた。また、女性用は女乗物とよばれ、大名の夫人が用いた。蒔絵(まきえ)なども施された豪華なものである。乗物に乗れる者は限られていたが、医師は特例として比較的簡素な乗物を用いることが認められていた。
このように、だれがどのような駕籠・乗物に乗ってよいか、ということを法的に定めたものを、「乗輿(じょうよ)の制度」という。この法令を最初に出したのは豊臣(とよとみ)秀吉で、1595年(文禄4)のことである。これは徳川家康に引き継がれ、1615年(元和1)、武家諸法度において、身分・年齢等による細かい規定がなされた。また、庶民が乗る辻駕籠については、その数が制限されている。この制度は江戸時代を通じて行われたが、幕府の滅亡とともに消滅した。
駕籠を担ぐことを業とするものを駕籠舁(かごかき)という。これに対し、乗物を担ぐ者は六尺(陸尺とも書く)とよばれた。「ろくしゃく」の呼称は、中世以前に輿の運搬に従事した力者(りきしゃ)がなまったものといわれている。駕籠舁は駕籠屋に詰めて客待ちをし、求めに応じて駕籠を出す。六尺は乗物を所有する家の専属で、主人が出かけるときに担いでいく。六尺は、その家の身分、格式などに応じた人数が置かれていた。また、街道沿いの宿場にいて、旅人を運ぶ者は雲助(くもすけ)とよばれる。雲助には、いわば「落ちこぼれ」の人間が従事することが多く、規定の料金のほかに酒代などをせびる者もあって、旅人を悩ませた。
市中の駕籠は通常1里を1時間くらいで走ったが、速いものは40分ほどである。遠距離では、江戸―京都間に早駕籠が設けられていたが、4日半ほどで走破するのが標準とされていた。
[胡桃沢勘司]
『大矢誠一著『運ぶ――物流日本史』(1978・柏書房)』