土佐一条氏(読み)とさいちじょううじ

改訂新版 世界大百科事典 「土佐一条氏」の意味・わかりやすい解説

土佐一条氏 (とさいちじょううじ)

戦国時代土佐国に土着した公家一条家の一流,三国司家の一つ。1468年(応仁2)一条兼良の長子前関白教房が国人大平氏らの援助により家領幡多荘中村へ下向したのを端緒とし,開祖房家より房冬,房基,兼定,内政(ただまさ)と5代つづいた。当初は家領回復に追われたが,細川氏の守護領国制崩壊後はその抜群の家格をもって諸国人間の紛争調停,房基のころには東進して高岡郡南部をもその版図に収め,豊後の大友氏と結びしばしば伊予南部へ侵入した。しかしこのような戦国大名化は,東土佐を平定し1569年(永禄12)西進をはじめた長宗我部元親により阻止された。元親は74年(天正2)一条兼定を豊後に追い旧一条領を平定,その子内政を長岡郡大津城(現,高知市)に移し娘を配したが,波川玄蕃の謀反に荷担したため伊予へ追放。内政の子政親は久礼田(くれだ)定祐に養われ久礼田御所といわれたが,長宗我部滅亡時土佐を去り,一条氏は滅びた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土佐一条氏」の意味・わかりやすい解説

土佐一条氏
とさいちじょううじ

一条家」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の土佐一条氏の言及

【一条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。鎌倉時代の初め,藤原摂関家は,忠通の後が基実流の近衛家と,兼実流の九条家に分かれたが,九条家は,兼実が源頼朝の推挙により摂関の座について以来,源氏将軍家との結び付きを強め,さらに兼実の孫道家に至って全盛期を迎えた。道家はみずから再三摂関に就任したばかりでなく,教実,良実2子を相ついで摂関に任じ,さらに1246年(寛元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。…

【三国司家】より

…南北朝期から戦国末年にかけて,それぞれの国の国司として,領国経営を行った三家の総称。1548年(天文17)の述作という《運歩色葉集(うんぽいろはしゆう)》や《貞丈雑記(ていじようざつき)》などでは,飛驒国司姉小路氏,伊勢国司北畠氏,阿波国司一宮氏を三国司と称し,また合戦記ながら史料的価値も比較的高いとされる《足利季世記(あしかがきせいき)》では,姉小路氏,北畠氏に加えて土佐一条氏を挙げている。また江戸初期に成立した《甲陽軍鑑(こうようぐんかん)》などでは,伊勢,伊予,奥州を称するなど,諸書によって異同がある。…

【中村[市]】より

…1468年(応仁2)前関白一条教房は応仁の乱の戦火を避けて当地に下向,〈中村御所〉〈中村館〉とよばれる居館を構え,家領幡多荘の維持と町づくりに努めた。以後,長宗我部氏に滅ぼされるまで土佐一条氏の支配が続く。四万十川と後川を桂川と鴨川に見立て,京を模した町づくりが進められて,延暦寺に擬せられた石見寺,石清水(いわしみず)八幡を勧請した不破(ふば)八幡宮も建立された。…

【幡多荘】より

…これが幡多荘の際だった特色である。この間土佐一条氏は京都一条家,朝廷,管領細川氏,堺町衆,本願寺などと密接な関係を保ち,それにかかわる南海路交易に幡多荘は重要な役割を果たしていた。1574年(天正2)土佐一条氏滅亡後は長宗我部氏によってその支配体制に組みこまれ,幡多荘は消滅する。…

※「土佐一条氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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