一条家 (いちじょうけ)
藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。鎌倉時代の初め,藤原摂関家は,忠通の後が基実流の近衛家と,兼実流の九条家に分かれたが,九条家は,兼実が源頼朝の推挙により摂関の座について以来,源氏将軍家との結び付きを強め,さらに兼実の孫道家に至って全盛期を迎えた。道家はみずから再三摂関に就任したばかりでなく,教実,良実2子を相ついで摂関に任じ,さらに1246年(寛元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。この更迭は実経に対する後嵯峨天皇の信任と道家の寵愛によるもので,良実ははなはだ不満であったが,同年鎌倉で起きた名越(北条)光時の乱に関連して道家・実経父子が失脚し,さらに翌年の三浦泰村の乱(宝治合戦)との関係をも疑われて,道家らは窮地に陥った。道家はこれを良実が幕府に誣告したためと考え,良実を義絶し,実経に多くの所領を与える遺領処分を行った。しかし道家の没後,良実・実経はともに関白に再任され,二条,一条両家が九条家から分立した。その後,一条家では,室町時代に希代の才人とうたわれて多方面に活躍した一条兼良などが現れた。また応仁の乱に際し,兼良の男,前関白教房は土佐の幡多に避難し,その子孫は中村に居館を構えて大名化したが,教房5世の孫内政に至って長宗我部元親のために追放され,土佐一条家は滅んだ。一方,京都では教房の弟冬良が家督を継ぎ,江戸時代末まで他の五摂家と並んで摂関の任に就き,明治に入って華族に列し,公爵を授けられた。その間,後陽成天皇の皇子昭良(初名兼遐)が内基の嗣に迎えられ,忠香の女美子が明治天皇の皇后(昭憲皇太后)になった。
家領
一条家領は,始祖実経が道家から譲渡された約40ヵ所の所領を中心として成立したが,南北朝以降急速に減少し,兼良の《桃華蘂葉(ずいよう)》に載せる家領は14ヵ所にとどまる。江戸時代の家禄は2044石余である。
執筆者:橋本 義彦
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一条家【いちじょうけ】
(1)藤原氏北家(ほっけ)の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の三男実経(さねつね)が始祖。しばしば摂政・関白に補せられ,一条兼良(かねら)などの学者を出した。(2)土佐(とさ)国司家。1468年兼良の子前関白(さきのかんぱく)一条教房(のりふさ)が応仁・文明の乱を避けて家領土佐国幡多(はた)荘中村に移り,国司として一国を支配したのに始まる。土佐一条家ともいう。房家・房冬・房基・兼定・内政と続いたが,長宗我部(ちょうそかべ)氏に圧倒されて衰退した。
→関連項目一条実経|九条家|春木荘
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一条家
いちじょうけ
藤原氏北家(ほっけ)、五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉時代の初め、実経(さねつね)が父九条道家(くじょうみちいえ)から所領と邸宅を譲られたことから始まる。この邸宅が一条室町(むろまち)にあったことから一条殿といわれ、家名となった。代々摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)に任ぜられ、近衛(このえ)家、九条家などとともに、公家(くげ)でも重きを置いた。室町中期の兼良(かねら)は学者としても名高い。兼良の長子教房(のりふさ)は戦乱を避け、家領土佐国(高知県)幡多荘(はたのしょう)に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家といわれ、戦国大名化したが、長宗我部(ちょうそがべ)氏に滅ぼされた。京都では教房の弟冬良(ふゆら)が継いだ。兼良の子で興福寺大乗院門跡(もんぜき)に入った尋尊(じんそん)も有名である。近世初めには、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の皇子兼遐(かねとお)(昭良(あきよし))を迎え、家名を存続した。明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は忠香(ただか)の三女である。明治維新後、華族に列し公爵を授けられた。
[飯倉晴武]
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一条家
いちじょうけ
藤原氏北家嫡流の九条家支流。五摂家の一つ。鎌倉中期の九条道家の四男実経に始まる。家名は,実経が父からその邸宅一条室町殿を譲られたことにちなむ。一条の坊名にちなんで桃華(とうか)ともいう。次兄良実が父と不和であったのに対し,実経は父に愛され,多くの所領を譲与された。「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」には九条・二条・一条のうち「一条殿の流れをもって嫡家となす」とみえる。代々摂政・関白となったが,室町時代に兼良・冬良のような学者もでた。兼良の長子教房は土佐国に下着。江戸初期,後陽成天皇の皇子昭良が養子として入り家を継いだ。江戸時代の家禄ははじめ1019石余,のち2度の加増で2044石余。維新後,実輝のとき公爵。
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一条家
いちじょうけ
五摂家の一つ。九条道家の3男実経の流れをいい,室町時代には兼良や冬良ら学者を輩出した。一時血統が絶えたが,後陽成天皇の子昭良が継ぎ,その子孫は明治にいたって公爵を授けられた。また,応仁の乱で一条兼良の子教房が土佐国幡多荘に移り土佐国司家となった一条家があるが,長宗我部氏のため滅ぼされた。
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一条家
いちじょうけ
藤原氏の北家流,五摂家の一つ
鎌倉中期,九条兼実の孫道家の3男実経 (さねつね) が九条家から分立し,一条家の始祖となった。室町時代には,兼良らのすぐれた学者を出した。
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世界大百科事典(旧版)内の一条家の言及
【土佐一条氏】より
…戦国時代土佐国に土着した公家[一条家]の一流,三国司家の一つ。1468年(応仁2)一条兼良の長子前関白教房が国人大平氏らの援助により家領幡多荘[中村]へ下向したのを端緒とし,開祖房家より房冬,房基,兼定,内政(ただまさ)と5代つづいた。…
【幡多荘】より
…その関係によってか,九条道家のときに九条家家領として幡多荘が立荘され,史料上は1237年(嘉禎3)が荘名の初見である。その後,道家の3子実経は一条家を分立,50年(建長2)多くの家領を道家から譲られたが,その中に幡多本荘,大方荘,山田荘,以南村,久礼別符がある。そのうち大方荘はのち一条家によって京都東福寺(道家開基)に寄進されている。…
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