土野庄
はにののしよう
出石川中流域、現出石町東部から現但東町西部に比定される京都下鴨社(賀茂御祖社)領の庄園。庄名は古代の出石郡埴野郷(和名抄)に由来し、「但馬考」は、上野・日野辺・桐野・寺坂、水石・畑(現但東町)の六村を当庄としている。「賀茂社古代庄園御厨」は、寛治四年(一〇九〇)七月一三日官符によって立券された下鴨社領庄園一九庄の一として「但馬国土野庄 田地五十町」を記す。仁治元年(一二四〇)には下鴨社禰宜祐継と同社氏人との間に下司職をめぐって相論があり、朝廷で審議され、「寛治定文」「康和・安貞両度宣旨」が問題となっている。これらの文書は現存せず、仁治の相論の結末も明らかではないが、寛治以来の下鴨社領で、しかも社家は庄園の経営に強い関心をもっていたようである(「平戸記」同年一一月二日条・三日条・六日条)。次いで建長八年(一二五六)京都上賀茂神社領矢根庄(現但東町)との境相論が院の評定で審議され、「人々申云、任記録所本勘文、重遣官使并両社使、可被実検、延久官符、寛治立券片文可尋官底」と「経俊卿記」同年八月三日条に記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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