埼玉郡
さいたまぐん
「和名抄」にみえ、訓は東急本に「佐伊太末」、名博本に「サイタマ」とある。足立郡の東、武蔵国の北東端に位置して北は利根川を挟んで上野国・下野国、東も同じく利根川を界して下総国に接していたが、江戸時代初期に庄内古川以西の下総国が武蔵国に編入されて葛飾郡が成立したため、北側だけが国境となった。なお葛飾郡成立と同じ頃、中世に下総国下河辺庄新方に属していたとみられる地域(江戸時代の新方領にほぼ合致)も武蔵国に編入され、正保国絵図作成時には埼玉郡所属となった。これ以後の郡境は西から南は幡羅郡・大里郡・足立郡に接し、足立郡と同様に北西―南東方向に狭長で、北武蔵では秩父郡に次いで広い。平安時代末期、当郡の太田郷を中心に太田庄が成立、ほぼ同時期から埼玉郡は、太田庄域は寄東郡(騎東・喜東などとも書く)、それ以外は埼西郡(崎西・騎西・寄西などとも書く)とよばれるようになったとみられ、やがて旧郡域は太田庄と埼西郡に二分して把握されたようである。その後近世に入りキトウ郡の称も復活、キサイ郡とともに寛永(一六二四―四四)末頃まで用いられたが、正保国絵図や田園簿では埼玉郡に統一された。江戸時代の郡域は、現在の北埼玉郡南河原村・大利根町・騎西町・川里村、行田市・羽生市・加須市、南埼玉郡菖蒲町・白岡町・宮代町、久喜市・蓮田市・岩槻市・越谷市・八潮市と北埼玉郡北川辺町・春日部市の大部分、熊谷市・北葛飾郡鷲宮町・北足立郡吹上町・草加市・鴻巣市の一部にあたる。
〔古代〕
郡名の初見する文献は、神亀三年(七二六)に作成された山背国愛宕郡雲下里計帳(正倉院文書)で、上毛野君族長谷の戸口である出雲臣乎須が和銅二年(七〇九)に「武蔵国前出郡」へ逃亡したと記されている。「万葉集」にも「前玉之小埼乃沼」(巻九)・「佐吉多万能津」(巻一四)などがみられる。両者は現行田市域にあった沼や津をさすといわれている。「和名抄」高山寺本は太田・笠原・
玉・萱原の四郷を載せ、東急本は余戸郷を加える。広大な郡域の割に郷数が少ない。「延喜式」神名帳は「前玉神社」(二座)、「玉敷神社」「宮目神社」を載せる。当地域は六世紀に武蔵の頂点に立っていた豪族「无邪志国造」(国造本紀)の本拠地であり、行田市の埼玉古墳群はその奥津城であったとされる。「日本書紀」安閑天皇元年条に登場する「国造笠原直使主」も埼玉古墳群を造った一族と考えられる。笠原は現鴻巣市東部に地名として残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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