日本歴史地名大系 「大里郡」の解説 大里郡おおさとぐん 面積:二〇七・〇五平方キロ大里(おおさと)村・江南(こうなん)町・川本(かわもと)町・花園(はなぞの)町・寄居(よりい)町・岡部(おかべ)町・妻沼(めぬま)町近世の郡域は現在の荒川両岸に位置する熊谷市南部、および南岸の大里村、江南町北部にまたがり、東は足立郡・埼玉郡、北は幡羅(はら)郡、西は榛沢(はんざわ)郡・男衾(おぶすま)郡、南は比企郡・横見(よこみ)郡に接していた。明治二九年(一八九六)郡制施行に伴う郡の統廃合により幡羅郡・榛沢郡・男衾郡が廃されて大里郡に編入され、郡域は東は北足立郡・北埼玉郡、北はほぼ利根川を境に群馬県、西は児玉郡・秩父郡、南は比企郡に接することになった。なお古代・中世の郡域は明確でないが、ほぼ近世のものに近いと考えられる。〔古代〕「和名抄」東急本は郡名を「於保佐止」と訓じ、諸本に異訓・異表記はない。大里郡の所属郷として同書高山寺本は楊井(やぎい)郷・市田(いちた)郷を載せ、東急本では郡家(ぐうけ)郷・余戸(あまるるべ)郷が加えられている。平安期中頃の武蔵国大里郡坪付(東京国立博物館蔵九条家本「延喜式」裏文書)は、東国の条里に関する豊富な内容をもっている。首尾を欠いているが、全面に「大里郡印」が押されているため、大里郡衙で作成されて武蔵国府へ提出されたものと考えられている。記載される条里は四条から九条までで、里は多いところで一〇里に及び、すべての里に固有名がつけられている。坪ごとに田積と「公」「庄」「菱」「乗田」などの地目注記があり、条と里ごとに田積集計をもつ。大里郡の全田地を書出したものと思われ、校田に供するため郡衙に保管されていた図帳をもとに作成されたと推定されている。坪付の記載から大里郡の条里地割は荒川扇状地の扇端部とその先の低湿地帯、現在の熊谷市から行田市へ流れる忍(おし)川より南、大里村の和田吉野(わだよしの)川より北に復原されており、現吹上(ふきあげ)町北部が郡域に含まれていた可能性がある。条里の一部は現在荒川の流路および河川敷となっていると考えられるが、熊谷市から大里村にかけてはかつて条里遺構が広く残されていた。坪付の現存部分の田積は約八九〇町で、欠失部を含めれば一千町以上の耕地があったことになるが、その約六割が公田であった。坪付にみえる五条二里の郡家里は熊谷市久下(くげ)一帯の微高地に比定され、記載された田地が少ないことから大里郡衙所在地との推定もあり、「和名抄」にみえる郡家郷にあたると考えられる。同じく楊井郷は六条二里の楊井里にあたるとみられるが、市田郷と余戸郷に関連する里名はみられない。五条一里の富久良里は班田数一四町七反に対し菱田(食用の菱が生える田)は九町七反余となっているが、この里に「逃去」の注記があることに注目し、百姓の逃亡、耕作放棄と菱田の発生を関連づける説がある(新編埼玉県史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by