太田庄(読み)おおたのしよう

日本歴史地名大系 「太田庄」の解説

太田庄
おおたのしよう

善光寺平ぜんこうじだいらの北部、千曲川の左岸に広がる沖積平野部を占め、西北に丘状の地を負い、東は千曲川にのぞんでおり、中央をあさ川が北東に流れて千曲川に注いでいる。現長野市北部から上水内かみみのち豊野とよの町にかけての一帯。信越深雪地帯の境界線の南にあたっている。

太田庄の初見は、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日「注進 三箇国庄々事下総・信濃・越後等国々注文」の条で、「殿下御領太田庄」とある。近衛家の伝領荘園で、高陽院領に属し、年貢などは近衛家が直接沙汰するところであった。建長五年(一二五三)一〇月の近衛家所領目録に、「信濃国太田庄年貢御倉沙汰」と記し、「高陽院領内」と注している。これが島津家の初代島津忠久の時地頭請所となり、承久三年(一二二一)五月八日の鎌倉幕府下知状(島津家文書)

<資料は省略されています>

とある。また、嘉禄三年(一二二七)六月一八日、忠久死去に際し、長子忠義(忠時)に与えた譲状案(同文書)に「信濃国太田庄内惣政所神代郷」とあるところから、島津氏は太田庄全域にわたる庄官職であって、近衛家の詰所としての利権を譲与したものであり、神代かしろ(現上水内郡豊野町豊野)が太田庄の中心であったものと考えられる。太田庄は、嘉禄三年一〇月一〇日、忠久の譲状に任せて、子忠時に与えた将軍家下文(同文書)に、「信濃国太田庄内小島・神代・石村南・津野已上四ケ郷地頭職」とあって、前記神代郷のほか、水内郡小島こじま郷・石村南いしむらみなみ郷・津野つの郷が含まれていた。

また同庄内には、北条実時の所領もあって、文永一二年(一二七五)四月二七日の日付をもつ金沢称名寺文書(賜蘆文庫文書)

<資料は省略されています>

とみえるように、北条実時は己の所領を処分して、太田庄大倉おおくら・石村両郷以下を妻の藤原氏(慈性)に一期を限って譲与した。大倉・石村両郷は藤原氏の後、実時の子孫の管理に帰したことは、後の建武五年(一三三八)四月二六日の足利尊氏下文(島津家文書)に「信濃国太田庄内大倉郷貞顕地頭職事」とあることで明らかである。年次は不明であるが、金沢文庫文書に「きしんするしなのゝくにおほたのこふり石村郷の事、このところをハ故越州の御ふたいのためなけうやうの又れう又自身の(た脱)いのためならひにしたいさうてんの人々の二世の願望しやうしゆのために、なかく三宝諸天の依怙のために(として)称名寺(へ)きしんするところ也」とあって、実時の後室慈性は亡夫実時や自分の後生菩提のため太田庄石村郷を鎌倉の称名寺に寄進したものと考えられる。


太田庄
おおたのしよう

庄域は、新川につかわ用水路の流れる自然堤防に沿って残る流路跡と古利根ふるとね川・古隅田ふるすみだ川に囲まれた地域。中世の史料に、北方手子林てこばやし郷・小松こまつ寺・北方村君之むらきみの郷・岩瀬正覚いわせしようがく院・羽生はにゆう正覚院・河俣かわまた郷・常木つねぎ(現羽生市)篠崎之しのざきの郷・志田見しだみ郷・川口かわぐち花崎はなさき久下くげ郷・大桑おおくわ郷・大室おおむろ(現加須市)、南方吉羽よしば郷・久喜之郷(現久喜市)慈恩じおん(現岩槻市)花積はなづみ(現春日部市)細間普門ほそまふもん(現大利根町)野田のだ・たかゆわ(現白岡町)上須賀かみすか郷・久米原くめはら(現宮代町)などがみえるところから、現在の羽生市・加須かぞ市・久喜市・岩槻市・春日部市・大利根おおとね町・北川辺きたかわべ町、南埼玉郡白岡しらおか町・宮代みやしろ町、北葛飾郡鷲宮わしみや町などの広範囲な地域に比定される。「和名抄」所載の埼玉郡太田郷を中心に庄園化したといわれ、鎮守は鷲宮わしのみや神社(現鷲宮町)とされる。

「吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月四日条に「武蔵国大田庄」とみえ、八条院領の庄園を列挙したなかにあげられているので、当庄は平安時代末に鳥羽上皇の第三皇女八条院子内親王に寄進されて成立した女院領庄園の一つであったと考えられる。ただし、当庄を後白河院領とする説(久喜市史)もある。立庄の時期や事情などは不詳であるが、寄進者(開発領主)は鎮守府将軍藤原頼行の子の太田行尊と推定される(鷲宮町史)


太田庄
おおたのしよう

太田川流域にあった皇室領庄園。古代の出石郡資母しも(和名抄)の地域と考えられ、「但馬考」は、三原みはらより上流、唐川からかわ木村きむら市場いちば(太田市場)中山なかやま東里とうり日向ひなだ畑山はたやま坂津さかづ口赤花くちあかばな奥赤花おくあかばな口藤森くちふじがもり・中藤森・奥藤森おくふじがもり坂野さかの虫生むしゆう高竜寺こうりゆうじ西野々にしののを「太田庄と云」としている。初見は「中右記」承徳元年(一〇九七)二月六日条で、伊勢神宮の役夫工使に濫行を働いた「但馬国太田庄住人」らに、検非違使の勘問を受けさせるよう命ぜられている。次いで延慶本「平家物語」には、文治二年(一一八六)五月一二日、北条時定とともに源行家父子を捕らえた常陸房昌明に、恩賞として「摂津国土宅ママ庄」とともに「但馬国太田庄」が与えられたことが記されている。昌明はもと比叡山西塔の僧といわれ、源頼朝の家人となって活躍した。源行家追捕に手柄をあげたことは「吾妻鏡」文治二年五月二五日条にも記されるものの当庄(地頭職であろう)を賜ったことは「平家物語」以外にみえないが事実とみてよく、昌明は当庄に本拠を構えた。そして承久の乱に際しては但馬にあって上洛を命じる後鳥羽上皇院宣を持参した使を斬り、上皇方の武士と戦ったあと深山に隠れ、次いで北条泰時の上洛軍に合流したという(「吾妻鏡」承久三年八月一〇日条)。昌明のこの行動が北条政子と同義時に激賞され、乱後但馬守護に抜擢された。以後太田氏を称し、元弘の乱の際の太田守延に至るまで子孫は代々但馬守護となった。太田氏の本拠は現太田字城山しろやまにあったかめヶ城とされる。


太田庄
おおたのしよう

文殊もんじゆ山北方の平野にある太田を中心とする地域に比定される。平安後期に成立した「三十五文集」に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

この寄進状が確かなものとすれば、太田庄は、天慶二年(九三九)陽成院により、封戸代として延暦寺に施入されたことになるが、他に徴すべき傍証はない。

鎌倉期に入ると、承久三年(一二二一)八月二五日、関東下知状が嶋津忠義(時)宛に下り、足羽郡生部いけぶ庄ならびに久安ひさやす保・重富しげとみ保地頭職を宛行っている(島津家文書)。この久安保・重富保が、後述する諸例からみて、太田庄内にあったことは疑いない。貞和三年(一三四七)七月一七日には、足利直義安堵状(秋元興朝所蔵文書)が地蔵院太政僧正覚雄宛に発給され、覚雄の先師親玄僧正の譲状(元亨二年三月六日付)に任せて、太田庄内重富保地頭職の領掌が安堵されている。


太田庄
おおだのしよう

現太子町東部一帯に比定され、「和名抄」の揖保郡大田おおた郷の郷名を継承する。現太田・上太田が遺称地。平安時代末期は左大臣藤原頼長領、その後は後白河院領、南北朝期は西園寺家領、戦国期は三条西家領。大田庄とも記す。仁平元年(一一五一)頃の月日未詳の僧定寛書状(陽明文庫蔵行親記長暦元年巻裏文書)に大田庄とみえ、宇治殿(藤原頼長)に年貢細美布を進上しているので頼長の所領であった。


太田庄
ただのしよう

肥前国「太田庄」(大田庄)と記された史料は承暦三年(一〇七九)のもの(三十五文集)から観応三年(一三五二)のもの(日向記)まで存在する(荘園志料)。いずれも郡名の記載がなく(または判読不能)地域比定は困難である。また「ただ」「おだ」「おおた」のいずれの読みをとるかも確定しがたい。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)には「太田庄二百五十四丁」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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