堀ノ内村
ほりのうちむら
[現在地名]八王子市堀之内・
別所・
南陽台二―三丁目
大栗川中流域の両岸にわたって立地し、西部は同川支流の寺沢川が流れる。北は高幡丘陵・百草丘陵の稜線で仕切られ、寺沢川の源流域に宮嶽山・堰山などが並び、南の村境に勝負沢山がある。西は越野村。村内を江戸より相州津久井(現神奈川県津久井町)に至る往還が通る。貞治二年(一三六三)一二月一九日の船木田庄領家方年貢算用状(東福寺文書)にみえる「一貫百文 下堀村」は、当地とされる。田園簿に堀之内村とみえ、田八〇石余・畑一二二石余で幕府領、ほか法清寺(現保井寺か)領三石余。元禄郷帳では一四四石余。天保郷帳でも高一四四石余であるが、享保五年(一七二〇)の助郷村高帳(佐藤家文書)に「油木堀内村」として高六〇四石余とあり、うち幕府領二七一石余、旗本千葉領二七一石余・同勝田領六〇石。
堀ノ内村
ほりのうちむら
[現在地名]嬉野町堀之内
中村川の下流右岸沿いの低地部に位置し、下ノ庄村の西にあたる。北対岸は一志村。小字名に畦垣内・宮垣内・坂垣内・御所垣内・幸八垣内などの垣内地名が多い。貞治二年(一三六三)舟木頼尚が城を築き、その子正尚は国司北畠顕能に属し、北畠具教没後、光晴の代に織田信雄より堀内城の地二五〇石を与えられたが、天正一二年(一五八四)豊臣秀吉に没収された(舟木氏系図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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