下堀村(読み)しもぼりむら

日本歴史地名大系 「下堀村」の解説

下堀村
しもぼりむら

[現在地名]十文字町睦合むつあい

東は今泉いまいずみ村枝郷下今泉しもいまいずみ村・真角まつかく村、南は雄勝おがち大久保おおくぼ(現羽後町)、西は西馬音内にしもない川で雄勝下郡山しもこおりやま(現羽後町)、北は西野にしの(現雄物川町)と接する。雄物川両岸にわたり、本村右岸に位置する。

梅津政景日記」元和五年(一六一九)一一月一八日から二九日条にかけて、下堀村讃岐と今泉村仁介との間で川役所持の出入がみられ、両村間の争いとなった。「今泉、下堀百性川論之事、今泉百性下堀ノ川をぬすミ舟乗あミ引たる儀ハくぢやう(苦情)致候間、下堀ノ者鮭ノ役十二の内八ツ今泉ノ者ニ出し候へと可申付由、尤下堀ノ者おさへ置候舟あミの儀ハ沙汰ニ不及由」と決着をみた。


下堀村
しもぼりむら

[現在地名]浜松市天王町てんのうちよう中田町なかだちよう

天王村の東、安間あんま川右岸に位置。「遠淡海地志」はシモリと振仮名を付す。天正二年(一五七四)九月一〇日、武田勝頼が本領の替地として遠州「下堀・天王」二〇〇貫などを松井宗恒に与えている(「武田勝頼判物写」土佐国蠧簡集残篇)。「遠江国風土記伝」に「天王の分村」とあり、承応四年(一六五五)の天王村検地(竹山家文書)に村名がみえる。元禄郷帳では高三四八石余。領主の変遷は江之島えのしま村と同じ。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)では家数二〇、うち本百姓一二、人数一八三、大工二、馬一一。


下堀村
しもほりむら

[現在地名]三芳村下堀

本織もとおり村の北西に位置し、東部を平久里へぐり川が流れる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録のきた之郡知行方分にみえる下堀込しもほりこめ村が当村で、高一一五石余(うち田七七石余)正保郷帳ではへい郡内に下堀村とあり、旗本三枝領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では幕府領。天保一四年(一八四三)武蔵忍藩領となるが(忍藩領郷村高帳)、嘉永六年(一八五三)には幕府領備前岡山藩預地となり(同七年「岡山藩房総預地村高帳」池田家文庫)、万延元年(一八六〇)近江三上藩領となる。天保三年の村明細帳(下堀区有文書)では川欠引が多く記載され、納米三六石余・永八貫五八文余、伝馬宿入用米・六尺給米三斗五升余、蔵前入用永三四五文余。


下堀村
しもぼりむら

[現在地名]小田原市下堀

東は高田たかだ村、南は中里なかざと村、北は千代ちよ村に接し、西を酒匂さかわ堰が流れる。南東を小田原道、西を酒匂道が通る。「風土記稿」には村の四方を幅二間の堀で囲むとある。永正一六年(一五一九)四月二八日の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)に「はこねりやう所々、菊寿丸知行分」として「十三くわん四百文 下ほり」とある。小田原衆所領役帳には幻庵「廿四貫文 西郡下堀 庚辰検地辻」とあり、同一七年北条氏による検地が行われている。


下堀村
しもほりむら

[現在地名]富山市下堀

富山城下の南郊に位置し、南は上堀村。飛騨街道(布市道)が通る。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高一七〇石余、田方一〇町五反余・畑方八反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高三八四石、免二ツ八歩、小物成は鮎川役一匁。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高三三九石余・定免三ツ二歩、新田高九石余・平均免一ツ六歩五厘余、銀納畑三千七二六歩、定小物成は鮎川役一匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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