塚野目村(読み)つかのめむら

日本歴史地名大系 「塚野目村」の解説

塚野目村
つかのめむら

[現在地名]国見町塚野目

南部を矢目やのめ川が、中央部を普蔵ふぞう川が、北部をたま川がそれぞれ東流し、集落は普蔵川沿い南北の自然堤防上に集中する。北は藤田ふじた村、南は伊達崎だんざき(現桑折町)、東は徳江とくえ村、西は北半田きたはんだ村・谷地やじ(現桑折町)地名は地内に四八の塚があったことに由来するといい、目は群の意味で(明治一四年「塚之目村誌」国見町史)、現在も一一基の塚が残る。普蔵川北部には、平安時代初め頃と推定される条里の遺構が近年まで残されていた。天文七年(一五三八)の段銭古帳に、伊達西根だてにしねのうちとして「つかの目」とみえ、段銭は五貫一八五文。「伊達正統世次考」天文一二年三月二三日条によれば、伊達晴宗が伊達氏天文の乱時に大波兵庫助を味方に誘うため、塚目の名代を与えることを約束している。字館前たてまえの塚野目城跡は、南側は阿武隈川氾濫原との比高が一六メートルあり、北側は矢目川が流れ、その間を東に延びた舌状地にある。


塚野目村
つかのめむら

[現在地名]三条市東三条ひがしさんじよう二丁目・興野こうや三丁目・嘉坪川かつぼがわ一―二丁目・塚野目

嵐北の平野部に位置し、集落は北隣の大宮おおみや新田と入組み、東に鶴田つるだ村、西に嘉坪川村と接する。村域内の諏訪田すわだからは平安時代頃の土師器須恵器が出土している。三条城山吉氏家臣の給分を記した天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には、山吉掃部知行分や井口分のなかに「塚目」がみえる。文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)には大槻おおつき庄の村として「塚之目村」がみえる。

慶長三年(一五九八)新発田藩領となる。当時の御領内高付帳(新発田市史資料)に「塚之目村」一千三〇五石四斗とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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