相模国鎌倉郷を本拠とした平安末期の武士。生没年不詳。権五郎と称し,景正とも書く。平良文の子孫とも良正の子孫とも伝え,後三年の役で源義家に従って活躍。大庭御厨の開発領主となり,その子孫は,大庭氏,梶原氏,長尾氏等に分かれて相模国内に発展した。
執筆者:細川 涼一 鎌倉景政は鎌倉権守景成の子と伝えられ,後三年の役に,八幡太郎義家の家人として弱冠16歳で従軍,出羽国金沢の柵の攻略に活躍し,大いに武名をあげた。《奥州後三年記》によると,このとき景政は,鳥海弥三郎のために左目を射抜かれたが,ひるむことなく即座に答えの矢を射返してこれを倒したといい,また同僚の三浦為次がささった矢を抜くために景政の顔を足で踏もうとしたところ,武士の顔を土足にかける無礼をとがめ,これを謝らせたともいう。その出身地である鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られる。
執筆者:梶原 正昭
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(上杉和彦)
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…相模国高座郡大庭郷(神奈川県藤沢市内)にあった伊勢神宮の荘園で,12世紀初めに成立。同国住人鎌倉景政が浮浪人を使って開発し,1117年(永久5)に伊勢神宮に寄進した。大庭郷内の新しい郷の沼郷,殿原郷,香川郷など13郷からなる約95町の田地で,中世には150町といわれる。…
※「鎌倉景政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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