国見町
くにみちよう
面積:三八・二〇平方キロ
島原半島の最北部に位置し、東部は有明町、西部は瑞穂町、南部は千々石町・小浜町および島原市に接する。町域の南部に雲仙山系の九千部岳(一〇六二・四メートル)・鳥甲山(八二二メートル)などがあり、これらの山嶺に挟まれて田代原盆地がある。鳥甲山を水源とする神代川・土黒川・土黒西川などが北流して有明海に注ぎ、その流域に島原半島一の肥沃な水田地帯が広がる。これらの河川間の丘陵地は畑作地帯となっている。海岸部は遠浅の礫・砂浜が続き、松林が連なる。海岸線沿いに島原鉄道が通り、それに並行して国道二五一号がある。ほかに島原半島を南北に縦貫する国道三八九号があり、山麓部を東西に主要地方道島原―愛野線や、島原北部広域農道などが通る。
町域南部の多比良高下名の旧石器時代から縄文時代にかけての松尾遺跡では西九州最古とされる尖頭器が発見され、金山の百花台遺跡では石器群の様相を層位的に把握することができる。土黒の石原遺跡では縄文時代草創期の北松浦産の玄武岩製の刃器、神代の縄文後期の筏遺跡では石鍬や籾痕の付いた土器、甕棺墓などがみられた。倉地川流域の佃遺跡は弥生時代と古墳時代を結ぶ遺跡として注目され、有力層の住居・神殿と推定されている。上篠原遺跡でも住居跡が発見され、四世紀代の土師器や、完形を保った陶質土器などが検出されている。六世紀中頃の築造とされる高下古墳は島原半島北部に勢力を誇った豪族がいたことを推定させる。律令制下では高来郡に属し、町域に「和名抄」に記される高来郡神代郷が置かれていたと考えられる。多比良の五万長者遺跡(胡麻長者遺跡)は八世紀前半の寺院跡と推定され、筏遺跡では平安後期の木棺墓が発見されている。
国見町
くにみまち
面積:三七・九〇平方キロ
中通り北部、伊達郡北部に位置し、北は宮城県白石市、東から南にかけては梁川町、西は桑折町に接する。町域の北と西は奥羽山脈にかかり、町域南東を阿武隈川が北東に流れる。北西部、泉田字中峯・字子清水の山(約七五〇メートル)付近に発する滝川は南東流し、北部の貝田字四ッ穴の山(約四五〇メートル)から南流する牛沢川と西大枝南端で合流したあと、阿武隈川に注ぐ。滝川は江戸時代から昭和三〇年代まで山崎より上流を太田川とよばれ、牛沢川は江戸時代貝田付近では風呂沢川、高城(東大窪村)付近では貝田沢川とよばれた。国道四号は塚野目・藤田・石母田・大木戸・高城・貝田と北上し、主要地方道白石―国見線、浪江―国見線、県道白石市赤井畑―国見線、五十沢―国見線が藤田市街地付近で交差する。県道国見―福島線は小坂・泉田を通る。また中央西寄りを東北自動車道が通り、小坂地区に国見インターチェンジ、貝田に国見サービスエリアがある。鉄道はJR東北本線が通り、藤田・貝田の二駅があるほか、それにほぼ並行して東北新幹線が通り、山崎の峯山には蔵王トンネルの入口がある。
国見町
くにみちよう
面積:七二・八九平方キロ
東国東郡の北西端、国東半島の北端に位置し、北は瀬戸内海・周防灘に面し、西は西国東郡香々地町・真玉町、南は豊後高田市・安岐町、東は国東町に接する。南部には両子山群の千灯岳・文珠山・両子山・伊美山など標高四〇〇―七〇〇メートル級の山が連なり、これら山塊から幾つかの河川が放射状に谷を形成しながら流下し、周防灘・瀬戸内海に注ぎ、河口部で小さな沖積平野をつくる。おもな河川は西から竹田津川・櫛海川・伊美川・岐部川・小能毛川・大熊毛川などがあり、集落・耕地はこれら河川沿いや海岸平野部に発達する。各河川が流入する海浜部は小湾が形成され古くからの良港であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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国見〔町〕
くにみ
福島県北東部,宮城県境にある町。 1954年藤田町と小坂,森江野,大木戸,大枝の4村が合体して成立。旧奥州街道の宿場町,戦国時代には伊達氏の家臣藤田氏の城下町として発展。機械部品製造,電子工業が行われる。米作とモモやサクランボなどの果樹栽培が中心で,蜂屋柿は特産。近くの丘陵は凝灰岩から成り,国見石として切出す。北東部の厚樫山 (国見山・289.4m) は,文治5 (1189) 年源頼朝が奥州藤原泰衡を攻めたときの古戦場。石母田 (いしもだ) には史跡の供養塔がある。 JR東北本線,国道4号線が通り,東北自動車道のインターチェンジがある。面積 37.95km2。人口 8639(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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