塩穴庄(読み)しあなのしよう

日本歴史地名大系 「塩穴庄」の解説

塩穴庄
しあなのしよう

大仙だいせん古墳より西部、旧舳松へのまつ村・みなと村辺りにあった皇室領庄園。「和名抄」の塩穴しおあな郷の南部にあたるとされる。元徳三年(一三三一)八月一二日の秦為季御影堂陀羅尼田寄進状(高野山文書)に為季は「塩穴庄中条船尾」の住人とされ、旧船尾ふなお村付近をも含んだとみられる。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に、若松わかまつ庄とともに後嵯峨天皇中宮大宮院藤原子領としてみえ、大宮院が領家職をもち、女宮と思われる按察局に庄官職が与えられていることが知られる。正慶元年(一三三二)六月日の臨川寺寺領目録(天龍寺文書)では、大納言近衛基嗣から土御門天皇の皇子尊助法親王(天台座主・青蓮院門跡)に譲られ、後嵯峨天皇を経て大宮院に渡り、さらに昭慶門院を経て後醍醐天皇の皇子世良親王に相伝された。当時塩穴庄の本所は奈良春日社、領家職は世良親王(大宰帥)家で、年貢は六〇(石か)、その他雑物を加えて一〇〇(石)ばかりの地であったという。地頭は二宮右衛門次郎入道。

亀山天皇離宮跡(現京都市右京区)に後醍醐天皇は臨川りんせん寺を建立し、塩穴庄を寄進したが、正慶元年六月、北朝光厳天皇による庄務妨害もあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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