多賀谷氏(読み)たがやうじ

改訂新版 世界大百科事典 「多賀谷氏」の意味・わかりやすい解説

多賀谷氏 (たがやうじ)

武蔵出身の中・近世武家。武蔵七党の野与党の有賀平太郎頼基の子光基が,武蔵国埼玉郡多賀谷に住して,多賀谷二郎を称したのに始まるという。また同じく村山党の金子十郎家忠の子家政に始まるとも伝える。鎌倉幕府御家人となり,室町・戦国時代には下総結城氏の家人となった。氏家は結城合戦後に主君結城成朝を助けて同氏再興に大功あり,常陸下妻城に拠った。その子孫は結城氏の重臣として重きをなし,政経のときには北条氏の進出に対抗するため,常陸太田城の佐竹義重と結んで,1576年(天正4)北条氏政の兵を破った。その子重経は90年小田原征伐に際して豊臣秀吉に服属し,下妻城6万石を安堵された。92年(文禄1)文禄の役に従軍せず,罰金を科せられる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦のときに,婿佐竹義宣とともに会津上杉景勝との通謀を疑われ,翌年所領を没収された。その子孫は越前松平・出羽佐竹両家の家臣となった。
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世界大百科事典(旧版)内の多賀谷氏の言及

【下妻[市]】より

…1340年(興国1∥暦応3)下妻政泰は北畠親房に応じて大宝城に拠って戦ったが,43年落城して戦死した。戦国期から多賀谷氏の城下で,織豊期重経の代に6万石の城下町として整備されたが,1601年(慶長6)改易となった。その後05~09年徳川頼房10万石,15年(元和1)松平忠昌3万石,16年松平(久松)定綱3万石と領主は変わり,19年廃藩。…

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