佐竹義重(読み)さたけよししげ

精選版 日本国語大辞典 「佐竹義重」の意味・読み・例文・類語

さたけ‐よししげ【佐竹義重】

  1. 戦国から江戸初期の武将。義宣の父。常陸太田城を根拠として北条氏、伊達氏と対抗し、下野陸奥の南部などを勢力下におさめる。はじめ信長に、のち秀吉に従う。天文一六~慶長一七年(一五四七‐一六一二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐竹義重」の意味・わかりやすい解説

佐竹義重
さたけよししげ
(1547―1612)

戦国~安土(あづち)桃山時代の武将。天文(てんぶん)16年2月16日、常陸(ひたち)国太田城(茨城県常陸太田市)に生まれる。幼名は徳寿丸(とくじゅまる)、字(あざな)を次郎と称す。戦国大名として北条氏政(うじまさ)と関東を争い、常陸国以外に下野(しもつけ)国(栃木県)へも進出し、一方、伊達政宗(だてまさむね)と仙道(せんどう)を争い、常陸、下野、奥州南部に分国を形成した。織豊(しょくほう)政権とは早くから連絡をとり、厩橋(うまやばし)(前橋市)にきていた織田信長の部将滝川一益(かずます)と提携をしたり、豊臣(とよとみ)秀吉の小田原城攻撃にも協力をした。そのため秀吉から当知行地(ちぎょうち)を安堵(あんど)され、「常州の旗頭」を命じられたが、隠居を理由に子息義宣(よしのぶ)にこれを譲った。なお佐竹家の秋田転封に際しても、徳川家康父子に政治工作をして、義宣が大名として存続できるよう努力をした。鬼義重とよばれて、出陣武者震いがとまらなかったといわれる。慶長(けいちょう)17年4月19日、出羽(でわ)国仙北(せんぽく)郡花館(はなだて)村(秋田県大仙(だいせん)市)で死去。御霊屋(みたまや)は秋田市の闐信寺(てんしんじ)にある。

[福島正義]

『福島正義著『佐竹義重』(1966・人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「佐竹義重」の意味・わかりやすい解説

佐竹義重 (さたけよししげ)
生没年:1547-1612(天文16-慶長17)

戦国・近世前期の武将。幼名徳寿丸,通称次郎,常陸介。1562年(永禄5)家督継承の後,父義昭が形成した常陸を中心とする版図をさらに拡大し,後北条氏の攻勢が強まると結城,宇都宮,那須氏と結んで対抗し,また蘆名氏らを支援し伊達政宗とも交戦した。90年(天正18)嫡子義宣が小田原に参陣,豊臣秀吉から領地安堵を受けたが,1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,秋田へ転封となった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐竹義重」の解説

佐竹義重 さたけ-よししげ

1547-1612 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)16年2月16日生まれ。佐竹義昭の長男。永禄(えいろく)5年家督をつぐ。常陸(ひたち)(茨城県)の太田城を中心に勢力を拡大し,北条氏や伊達氏に対抗。小田原攻めに子の義宣(よしのぶ)を参陣させ,豊臣秀吉から領地を安堵(あんど)された。慶長17年4月19日死去。66歳。通称は次郎,常陸介。
【格言など】戦いは人数の多少で決まるものではない(多勢の北条軍に攻められて)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐竹義重」の意味・わかりやすい解説

佐竹義重
さたけよししげ

[生]天文16(1547).2.16. 常陸,太田
[没]慶長17(1612).4.19. 出羽,花館
戦国時代の武将。義昭の子。常陸,下野,陸奥に勢力をふるい,天正 14 (1586) 年子義宣に家督を譲ったのちも活躍。早くから豊臣秀吉に通じて本領を安堵された。

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367日誕生日大事典 「佐竹義重」の解説

佐竹義重 (さたけよししげ)

生年月日:1547年2月16日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将;常陸太田城主;義昭の子
1612年没

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世界大百科事典(旧版)内の佐竹義重の言及

【佐竹氏】より

…常陸出身の中・近世の武家。清和源氏(図)。新羅三郎義光が兄義家に協力するため常陸介として下向し,子義業が久慈郡佐竹郷を領有,孫昌義が母方について土着し,奥七郡を支配して佐竹冠者とよばれるようになった。昌義の子と思われる義宗は下総国相馬御厨の預職に任命されている。源頼朝挙兵に当たっては,秀義が平氏に荷担して頼朝包囲に加わったが,1180年(治承4)逆に頼朝によって金砂山に攻められ,奥州に敗走,父祖の地を失った。…

【常陸国】より

…とくに顕著なのは父祖以来の常陸北部での勢力を基本とし,常陸一国はもとより南奥にまで勢力拡大を図る佐竹氏の動きである。当主の佐竹義重は1562年(永禄5)以後,常陸,下野の諸大名や東国の諸大名と同盟を結び,北の伊達政宗,東の北条氏康と対峙する。またこの当時すでに中央の統一権力となった織田信長,豊臣秀吉や,甲斐の武田氏,越後の上杉氏らとも結んで勢力拡大を図る。…

※「佐竹義重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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