大倉戸新田村(読み)おおくらどしんでんむら

日本歴史地名大系 「大倉戸新田村」の解説

大倉戸新田村
おおくらどしんでんむら

[現在地名]新居町浜名はまな

橋本はしもと村の西、東海道沿いに開けた新田村。西は白須賀しらすか宿(現湖西市)元宿もとじゆくに接し、北側には小高い山並が連なる。寛永一〇年(一六三三)遠江代官秋鹿氏の手代であった三宅四郎右衛門が橋本村の葭野を開発したもので、正保二年(一六四五)検地によって二八石余を検出、延宝二年(一六七四)に五〇石余となった。総反別八町八反余、うち田二町六反余・畑六町一反余(慶応四年「田畑高反別書上帳」鈴木家文書)。ほかに内山うちやま村に三石余の出作地があった。元禄郷帳・天保郷帳とも高五〇石余、いずれも橋本村枝郷と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報