橋本村
はしもとむら
[現在地名]白井町白井・根
現町域のほぼ中央、神崎川と支流の二重川が合流する地点の西側を中心に、その一帯を占める。川沿いに田地があり、集落はおもに台地上にある。白井橋本村ともみえ、木下道(鹿島道・行徳道ともいう)の継立場で、白井宿が形成された。慶長七年(一六〇二)七月三〇日の検地帳(船橋市西図書館蔵)に印西庄外郷白井郷之内橋本之郷とみえ、反別五町三反余、永不作九反余。名請人七人のうち屋敷持の三人で村総反別の八割を占め、うち一人に禰宜の名がみられる。なお同一一年の本末連判状(中山法華経寺文書)には白井村円春坊日到とみえ、同一五年には香取郡長岡村(現山田町)の稲葉山神社の造営にあたり白井村として寄進しており(棟札)、当時の白井の地名は橋本村を含む一帯の総称と考えられる。幕府領であったが、寛永二年(一六二五)の知行宛行状に印旛郡橋本村とみえ、当村四五石などが旗本今村領となっている。以後幕末まで同じ。元禄郷帳・天保郷帳ともに橋本村とみえ、享保一六年(一七三一)には今村金之丞によって再検地が行われた(鈴木家文書)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]大津市瀬田一―三丁目・神領一丁目・同三丁目・野郷原二丁目・瀬田橋本町
琵琶湖の最南端、瀬田川河口部の東岸に位置し、東海道が通る。川沿いに南北に長い村域で、東方は神領村、北端部は大江村、南は田上の諸村。地名の由来となった勢多橋は政治・交通の要衝で、古代以来往還の賑いがあった一方、しばしば戦場と化したと考えられる。中世には粟津橋本供御人の活動が知られる(→粟津橋本御厨)。天正一一年(一五八三)羽柴秀吉による近江の知行割では浅野長吉が瀬田城主となり、勢田郷一千五九一石余・「せた橋つめ」四三四石余などを知行地としている(同年八月「浅野長吉知行目録」浅野家文書)。この勢田郷の範域は未詳だが、当地と考えられる「橋つめ」を別に書上げているのは注意される。寛永石高帳には勢多村の内として高六六八石余、小物成二八石余・同銀一八三匁とある。慶安高辻帳には勢田村として田六三四石余・畑五六石余、永荒三六七石余。元禄郷帳には橋本村三三〇石余とあり、神領村を合せた村高であることがわかる。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]相模原市橋本一―二丁目・同五―七丁目・元橋本町・橋本・西橋本一―五丁目・大山町・南橋本二―三丁目
北は境川を隔てて武蔵国多摩郡相原村(現東京都町田市)、東は小山村、西は上相原村、南は下九沢村に接する。東南は相模野に連なり、南北に八王子道(大山道)が通る。小田原衆所領役帳にみえる「粟飯原四ケ村」の一つで、正保国絵図の「相原」に含まれる。「風土記稿」は正保三年(一六四六)分村したという。元禄郷帳には「相原 古者中相原村橋本村」、天保郷帳にも「相原橋本村」とある。
元禄一〇年(一六九七)旗本藤沢・別所・石野領、幕府直轄領(同一三年以降旗本高木領)の四給。寛文四年(一六六四)の検地帳(津久井郡津久井町小川文書)によれば畑一一三町五反余。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]貝塚市橋本
石才村南東にある日根郡の村。西部は近木川両岸にわたる平地で、村域はそこから同川左岸沿いに南東の丘陵地に延びて三松村に接する。平地部の近木川左岸、熊野街道に沿って集落を形成。南北朝時代、南朝方にくみして活躍した橋本氏は当村の出身といわれている。延元元年(一三三六)九月七日、北朝方畠山国清軍が八木城(現岸和田市)に押寄せたとき、天王寺(現天王寺区)方面から八木城の救援にかけつけた武将に橋本九郎左衛門正茂がいた(同二年三月日「岸和田治氏軍忠状案」和田文書)。正平二四年(一三六九)三月一八日、橋本正督は河内金剛寺(現河内長野市)に濫妨狼藉を禁止する制札を掲げている(金剛寺文書)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]竜王町橋本
川上村の南、島村・駕輿丁村の北に位置し、西は惣四郎川境に鵜川村。集落は東の武久、西の橋本に二分され、かつてはそれぞれ独立した村であったが、のち一村になったという。暦応四年(一三四一)三月一六日の平某等連署宛行状(左右神社文書、以下断りのない限り同文書)によれば、橋本村人の平宗口・沙弥信正・同西念は左右宮神田一反(畠地)の下作職を尼女に宛行っているが、加地子(四斗)を懈怠したときは下作職を「村人之御中」へ取上げるとあって、神田などが惣の主導層となった村人(ムラント)の沙汰・知行とされている。永徳二年(一三八二)六角氏家臣の宇津呂貞高は橋本の名主某に恩賞として「宇河天王ウシロ」にあった名田一反を与えている(同年二月日宇津呂貞高下文)、康暦元年(一三七九)四月二八日管領細川頼之は「蒲生郡内尊勝寺下保竹久」の地を儀俄五郎氏秀に預け置いている(「細川頼之奉書」蒲生文書)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]新居町浜名
新居宿の南西、浜名川流域に位置し、東海道が東西に通る。北は丘陵を挟み内山村、南西は松山新田村、西は大倉戸新田村。地名は浜名橋のたもとに開けたことに由来するとされる。当地は平安時代以来、東海道の要害の地であると同時に宿として栄えてきたが、一五世紀末に今切が形成されて以降は、徐々にその地位を新居に譲ることになった。天正一八年(一五九〇)橋本之郷の検地が行われた。同年五月四日の年貢目録写(東福寺文書)によると田畠七万一千一五九歩(一九町七反余)、屋敷一万一八二坪、うち東福寺居屋敷一千坪・道場居屋敷一千八〇坪・東福寺領中田一千九四〇歩・大明神(現諏訪上下神社)領中田一千八〇歩・百姓屋敷分中田八四六歩・百姓屋敷分九五七坪・棟別成屋敷七千一四五坪で棟別本銭四貫七六三文であった。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]西区橋本一―二丁目・橋本・戸切一―二丁目・野方一―二丁目・壱岐団地、早良区有田八丁目・次郎丸二―三丁目・室住団地
福重村の南、室見川流域にある。東は有田村(現早良区)、北西は拾六町村。早良郡に属する。西を名柄川がほぼ北流する。戦国末期のものと推定される一〇月一九日付の内藤隆春知行注文(萩藩閥閲録三)には、宝満城(現太宰府市)などの城主であった高橋鑑種抱の地として相良(早良)郡神代給の「橋本」一〇〇石足が記される。天正八年(一五八〇)四月三日には安良平城(現早良区)籠城などの功により、同城主であった小田部統房から中牟田三河入道に橋本のうち九反の地などが与えられた(「小田部統房宛行状」黄薇古簡集)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]米子市橋本
奈喜良村の東、法勝寺川西岸平野部にある。北部に小丘陵宝石山(一〇八メートル)がある。村名の由来を「伯耆志」は、かつて南西の川(加茂川)に石橋が架けられ、この橋を渡る道は出雲富田(現島根県広瀬町)への大道であったことによると記す。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「橋本」七五貫とみえる。近世以降も当村は南東の大谷村・実久村などとともに新山を越えて出雲へ向かう道に沿っており、また集落は度重なる法勝寺川の氾濫を避けるために、宝石山南の微高地に位置した。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]仙北町橋本
丸子川下流左岸の平野に位置し、南は畑屋村・羽貫谷地村(現千畑村)、東と北は高梨村、西は小貫高畑村(現大曲市)に接する。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に橋元村七四一石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には橋本村とみえ、当高で本田七三一石余、本田並六一石余、新田八四石余、合計八七七石五斗八升一合とある。同一五年の「六郡郡邑記」によれば、家数は一六軒、支郷に
田村三軒、中井村八軒、中谷地村六軒、婦気村六軒、稲荷村七軒、田中村一〇軒があった。同一四、一五年の二度にわたり年貢米を積んだ船が新屋村(現秋田市)付近で破船し、再び年貢米を納めることになる(高梨村郷土沿革紀)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]石橋町橋本
姿川を挟んで下大領村の西に位置し、西は藤井村(現壬生町)、北は細谷村。天正一八年(一五九〇)九月二一日の結城秀康朱印状(多賀谷文書)によれば、藤井のうち細井村(細谷村か)・橋本村四八二石余など二千五〇石が多賀谷政広に宛行われており、壬生氏滅亡後当地は結城氏の所領になったと考えられる。慶安郷帳に村名がみえ、田二五九石余・畑一〇八石余で壬生藩領。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録に村名が記される。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]岩瀬町上城
雨引山北麓にあり、東は友部村、北は谷中村。戦国期は笠間氏の支配下にあり、村の南西にある橋本城に笠間氏の家臣谷中玄蕃が居城した。天正一一年(一五八三)益子氏領の中里村と笠間氏領の門毛村の境界争いに端を発し、谷中玄蕃と益子方の加藤大隅守が岩瀬地方一帯を戦場にして合戦した。はじめ劣勢に立った加藤軍は結城晴明に援軍を求めた結果、形勢が逆転し、玄蕃は戦死した。玄蕃の子孫八郎は翌一二年五月弔合戦と称し、磯部の地の上諏訪で激戦を交え、益子・結城両軍を敗退させたと伝える(関東古戦録)。
江戸時代は笠間藩領で、「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池二、四壁山八があり、文化期(一八〇四―一八)の戸数二六・人数一〇七、馬九。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]船岡町橋本
塩上村の南に位置する。拝領高は一八一石余、本免は四ツ九分。藪役銀五七匁二分を課されていた(藩史)。「因幡志」によれば家数四五。産物は炭・薪・独活・蕨・猪・猿・狸。手火(現在は下野地内)は当村・下野村両村の支村であった。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二六七石余、竈数三八。地内の長藪・中ノ谷口・宮ノ下モにそれぞれ御立藪があり(文政一〇年「八上郡御立山絵図面帳」県立博物館蔵)、文化一一年(一八一四)には、高草郡秋里村(現鳥取市)地内の三島の立藪のものに替えて当村の竹水箪(水筒用の竹か)五〇本が「御船宮御用」として供出されており、文政二年(一八一九)と同九年には当村へ矢師が派遣されている。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]鳥取市橋本
国安村の東、八坂山の北麓に位置する。村名はかつて千代川が八坂山の麓を通り、当村の前を流れていた時、大橋が架かっていたことに由来すると伝える(因幡志)。拝領高は四〇八石余、本免五ツ四分。安政五年(一八五八)の生高四七五石余、物成二二二石余。山役米三石三斗余・藪役銀二匁九分余が課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。加藤氏・高沢氏・鈴木氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一六、安政五年の村々生高竈数取調帳では竈数一九。宝暦二年(一七五二)気多郡勝宿大明神(現鹿野町の加知弥神社)などの願いによる福引興行が当村で行われた。文化一〇年(一八一三)従来からの鳥取城下の火消しを勤める在方駆付人夫六人に加えて、城内火消役の御城駆付人夫六人が課せられた。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]上三川町上郷
南北に延びる岡本台地東縁部と鬼怒川低地からなり、東を江川、西を磯川が南流する。西は上蒲生村。近世初めは烏山藩領。慶安郷帳に村名がみえ、田高二六六石余・畑高一三三石余、旗本大草・川勝・杉原・服部の四給。元禄郷帳では旗本大草が消え三給。享保九年(一七二四)には旗本川勝領(「芝野二百町歩開発願」稲見喜正文書)。改革組合村では旗本平岡・川勝の二給。旧高旧領取調帳では幕府領と旗本川勝の二給。享保一三年には徳次郎宿(現宇都宮市)の当分助郷村で勤高三六一石(明和九年「日光社参人馬勤覚書」岡田純一文書)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]岩室村橋本
西を矢川が北へ流れ、西は川を隔てて岩室村、北東は尻引村。集落は川沿いにある。慶安三年(一六五〇)頃までに開発され、元禄郷帳には舟越村枝郷として村名がみえ高一三五石余。旗本牧野氏領に属し、文久三年(一八六三)の高直し以降三根山藩領。天保一二年(一八四一)には財政窮乏に陥った同藩が当村を下条(現北蒲原郡水原町)の市島次郎吉に質入れしていた(天保一三年寅暮両表御入用金大図り「三根山藩」所収)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]水原町牧島
牧ヶ島村の西に続く。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では保田組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高五六石二斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領、その後白河藩領となり、元文二年(一七三七)の堀越組御検見村順御案内帳(北方文化博物館蔵)によれば、高六一石四斗余、田反別四町四反余・畑反別四反余、家数一〇(高持七・高無三)、男二八・女二八。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]桜井市大字橋本
阿部村西方に所在。元禄郷帳にはみえないが、「大和志」に村名が現れ、天保郷帳に「池尻村橋本村」とみえるので、それ以前は池尻村(現橿原市東池尻町)のうち。池尻村は近世初期には南山村(現橿原市)に属した。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]八幡町橋本
北仁田村の北にあり、東は下福山村、西は芹田村。日向川を境に遊佐郷と接する。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には橋本興野村とあり高一五一石余。寛永元年庄内高辻帳にも橋本興野村とあり高一二五石余。享和三年(一八〇三)には家数一六・人数七三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]唐津市橋本
松浦川と波多川(徳須恵川)の合流点に位置し、常時洪水の被害を受けた。藩政期には唐津と佐賀を結ぶ往還の渡場があった。この傍らに自然石があり、土地の人は「なきべそ観音」として信仰した。口伝によれば、岸岳末孫の供養塔で、七色の菓子を供えて詣ると夜泣きの子に効果があるとされる。明治に入り河原橋ができ、渡場は廃止された。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]芦北町湯浦
湯浦村から南へなだらかに登りながら広がる水田中にあり、橋本川の左右に集落が点在する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。湯浦手水に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女四五、うち女二〇、一五歳より六〇歳までの男一三人のうちに二人の郡筒が含まれ、竈数六、馬数三とある。
橋本村
はしもとむら
[現在地名]長浜市泉町
中沢村の東、国友村の南に位置。寛永石高帳によれば高三七四石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免五ツ四分。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 