大内持世(読み)おおうち・もちよ

朝日日本歴史人物事典 「大内持世」の解説

大内持世

没年嘉吉1.7.28(1441.8.14)
生年:応永1(1394)
室町時代の武将。幼名九郎。官途は刑部少輔,修理大夫。義弘の子。永享3(1431)年の盛見の死後,九州に渡って少弐・大友勢と戦う。翌年,大内持盛との家督争いに勝利し,周防長門豊前守護職を継承。中国,九州の奉公衆や国人を率いて少弐・大友討伐を行い,永享5(1433)年8月に筑前秋月城で少弐満貞を討ち,同8年には豊後姫岳城の大友持直を没落させた。翌9年1月,周防に帰国。11年に将軍足利義教から上洛命令を受けたが,これに従わず,安芸国の所領一所を没収された。同年に朝鮮使節が来日したことを利用し,翌12年2月に対立する少弐氏の満貞の遺子嘉頼の赦免幕府に認めさせ,上洛した。嘉吉1(1441)年の義教暗殺の場に同席し,そのとき受けた傷がもとで死去。

(佐伯弘次)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内持世」の解説

大内持世 おおうち-もちよ

1394-1441 室町時代の武将。
明徳5年2月21日生まれ。大内義弘の子。永享4年弟持盛との家督争いに勝利し周防(すおう),長門(ながと),豊前(ぶぜん),筑前(ちくぜん)の守護となる。5年持盛を豊前篠崎で,少弐(しょうに)満貞を筑前秋月でほろぼす。つづいて大友氏,少弐氏を攻め九州北部を掌握。嘉吉(かきつ)元年赤松満祐(みつすけ)が足利義教を暗殺した時,その場にいて重傷を負い7月28日没した。48歳。幼名は安幸丸,九郎。通称は大内介。

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367日誕生日大事典 「大内持世」の解説

大内持世 (おおうちもちよ)

生年月日:1394年2月21日
室町時代の武将;周防・長門・豊前の守護
1441年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大内持世の言及

【大内氏】より

…中世の西中国の雄族(図)。百済聖明王第3子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸,聖徳太子より大内県を采邑とし多々良の姓を賜ったと伝える。鉄製錬技術をもち半島から帰化した氏族であろう。12世紀中葉から周防在庁の有力者で盛房以来周防権介を世襲し大内介と称した。13世紀後半惣領家は在国司ほかの要職を,庶家の問田(といた)・右田(みぎた)・鷲頭(わしず)の諸家も在庁の要職を保持し,同時に鎌倉御家人で六波羅評定衆。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」