日本歴史地名大系 「大宜味間切」の解説 大宜味間切いぎみまぎり 沖縄県:沖縄島北部大宜味村大宜味間切現在の大宜味村にあたる間切。国頭方に所属。北東は国頭(くんじやん)間切、南東は久志(くし)間切、南西は羽地(はにじ)間切、北西は東シナ海に臨む。首里から大宜味間切番所のある塩屋(さー)村までの距離二〇里五町余(里積記)。古琉球期には大宜味間切は存在せず、のちに大宜味間切になる地域は羽地間切と国頭間切に所属していた。「球陽」尚貞王五年(一六七三)条などによると、同年に羽地間切から二ヵ村、国頭間切から一一ヵ村を割いて「田港郡」(田港間切)が設置され、向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)が惣地頭に任じられている。のち田港(たんな)間切(田湊間切)は大宜味間切と改称(同書尚貞王五年条の割注)。「琉球国由来記」に大宜味間切、「琉球国旧記」では大宜味郡、「球陽」では大宜味郡・大宜味県などとも記される。当初の所属村は渡野喜屋(とうぬじやー)・田湊(たんな)・屋古(やふ)・前田(めーだ)・塩屋(さー)・根路銘(にみ)・饒波(ぬーは)・喜如嘉(きじやは)・根謝銘(いんじやみ)・城(ぐしく)・屋嘉比(やはび)の一一ヵ村で、のち親田(うえーだ)村・見里(すんばる)村・大宜味(いぎみ)村・一名代(ていんなす)村が新たに設置され、屋古村と前田村が合併して屋古前田(やふめーだ)となったため一四ヵ村となった。一方、康熙三四年(一六九五)に間切の境界に変動が生じ、久志間切の平良(てーら)村・川田(かーた)村(現東村)が大宜味間切に編入され、太平洋に面する東海岸の地域まで大宜味間切となったが、同時に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移された。しかし同五八年にこれら五ヵ村にとって便利ではないとして、それぞれ元の間切に戻された(以上「球陽」尚敬王七年条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by