塩屋村(読み)しおやむら

日本歴史地名大系 「塩屋村」の解説

塩屋村
しおやむら

[現在地名]佐伯市常盤東町ときわひがしまち常盤西町ときわにしまち常盤南町ときわみなみまち中村東町なかむらひがしまち中村西町なかむらにしまち中村南町なかむらみなみまち中村北町なかむらきたまち平野町ひらのまち長島町ながしままち一―四丁目・なか島東町しまひがしまち東町ひがしまち臼坪うすつぼ蟹田がんだ来島町くるしままち中の島なかのしま一―三丁目・向島ほうじま一―二丁目・女島めじま上灘かみなだ東灘ひがしなだ鶴谷つるや野岡のおか

佐伯湾に面する番匠ばんじよう川河口付近の低平地に立地。村名は当村の浜で古くから塩焼(製塩)が盛んで塩屋千軒といわれたことに由来するという。村内八幡はちまん山に佐伯城(塩屋城)が築かれ、その南東麓に佐伯城下が形成され、城下町は在方支配から離れた。天正一六年(一五八八)七月に「しほや」の藤衛門尉夫妻が、同年八月一八日牛深六郎兵衛ほか一名が、同一九年六月二四日与三左衛門ほか二名がそれぞれ伊勢神宮に参詣している(「参宮帳写」後藤作四郎文書)。慶長豊後国絵図に村名がみえ、高四二六石余。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録帳(佐伯藩政史料)では高四三六石余、反別田二三町五反余・畑二二町四反余、免二ツ五分。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]赤穂市塩屋・大町おおまち惣門町そうもんちよう宮前町みやまえちよう三樋町みつひちよう六百目町ろつぴやくめちよう西浜北町にしはまきたまち長池町ながいけちよう城西町じようさいちよう若草町わかくさちよう加里屋かりや

赤穂城下の北西に位置し、南は播磨灘。村内を備前街道が通る。文安二年(一四四五)の兵庫北関入船納帳の四月一四日の記事に「塩屋」、兵庫北関雑船納帳の同年九月二二日に「しをや」などとみえ、当地の船が備後米などを運漕して兵庫北関に入港している。当地真光しんこう寺蔵の永正三年(一五〇六)の絵像裏書に「善祐門徒播州赤穂郡塩屋村」とある。なお塩屋の地名は製塩とのかかわりを示すもので、字堂山どうやまにある堂山遺跡からは、弥生時代の製塩土器のほか、平安時代末期から鎌倉時代前半にかけての揚浜系の塩田遺構が発見されている。

「赤穂郡志」に「塩屋村ハ鱧谷ヨリノ出村ナリ、鱧谷ハ正面荒神山ノうしロ横谷溜池ノ谷ナリ」とあるように、製塩のため山麓から海辺に移り「潮屋」に住始めたのが始まりと伝える。慶長一四年(一六〇九)五月の塩屋村検地帳(塩屋村文書)の一部が残り、田畑と塩田に分けて記される。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]加賀市塩屋町

大聖寺だいしようじ川河口、日本海に面する村で、川を隔てて南は越前浜坂はまさか(現福井県芦原町)吉崎よしさき(現同県金津町)に対峙する。川の左岸に鹿島があり、陸繋島となって江沼えぬま吉崎よしざき村に続き、越前北潟きたがた湖の出口をふさぐかたちになっている。時衆過去帳(清浄光寺蔵)に遊行一五代尊恵(在位一四一七―二九)に結縁した僧として「シホヤ」陵阿、「塩屋殿」漢阿、尼衆に「シホヤ」音一房・了一房がみえる。近世たけの浦と称される大聖寺川河口入江の海陸交通の要地であり(江沼郡誌)、一五世紀前半には時宗が盛んだったことがうかがわれる。なお「源平盛衰記」巻二八によると寿永二年(一一八三)五月二日、ひうち(現福井県今庄町)を攻略し敗走する北国武士団を追って加賀に乱入した平維盛軍が陣した地の一つに「塩越」がある。また元亀三年(一五七二)九月二一日の金沢御堂衆坪坂伯耆入道に宛てた願成寺蓮寿書状(坪坂文書)に、南加賀二郡による江州表の浅井・朝倉軍救援に能美のみ郡旗本宇津呂丹波が出陣するとして「塩越」への同道を願出ている。


塩屋村
さーむら

[現在地名]大宜味村塩屋しおや上原うえはら押川おしかわ

(塩屋湾)の湾口北岸に立地し、西は東シナ海に臨む。初め国頭方国頭くんじやん間切に属していたが、康熙一二年(一六七三)田湊たんな間切(のち大宜味間切と改称)が設置された時、田湊間切に編入された(「球陽」尚貞王五年条など)大宜味いぎみ間切の番所は田湊たんな村から大宜味いぎみ村に移り(「琉球国旧記」など)、のち塩屋村に移った。第二次世界大戦前に大宜味村役場に保存されていた乾隆期(一七三六―九五)の絵図には塩屋村に番所があったと記されていた。間切番所(一八九七年に役場と改称)は一九〇八年(明治四一年)の沖縄県及島嶼町村制施行時まで塩屋村に置かれていた。絵図郷村帳には国頭間切「しおや村」とみえる。琉球国高究帳では国頭間切「ねるめ村・塩屋村」と併記され、高頭五一石余、うち田三七石余・畠一四石余。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]垂水区塩屋町一―九丁目・塩屋台しおやだい一―三丁目・松風台しようふうだい二丁目・青山台あおやまだい一―六丁目・塩屋町・しろやま一丁目

鉢伏はちぶせ(二五二・八メートル)鉄拐てつかい(二三六メートル)の西麓に位置し、さかい川で摂津国と境する。地内を小河川の塩屋谷しおやたに川が流れ、東は摂津国八部やたべ郡西須磨村(現須磨区)、南は明石海峡。松尾芭蕉の句「かたつぶり角ふりわけよ須磨明石」(猿蓑)の地。山陽道が海岸べりを横断する。「平家物語」巻九(一二之懸)に「一谷ちかく塩屋といふ所に、いまだ夜ふかかりければ、土肥次郎実平、七千余騎でひかへたり」とある。寿永三年(一一八四)二月六日一ノ谷合戦前夜の布陣である。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]丸亀市塩屋町一―五丁目・塩屋町・新浜町しんはまちよう一―二丁目・前塩屋町まえじおやちよう一―二丁目・天満町てんまちよう二丁目

城下の北西部に隣接し、南は東から地方じかた村・津森つのもり村・今津いまづ村。北は瀬戸内海に面し、沖合に塩飽牛しわくうし島・ほん島がある。南は西汐入にししおいり川が東流して城下に注ぐ。東部の城下福島ふくしま町に続く地域は新塩屋しんしおやとよばれる(西讃府志)。地名は、元和元年(一六一五)那珂なか柞原くばら郷に属した当地に播磨国赤穂あこう(現兵庫県赤穂市)から田中孫六以下二八人が移住、塩田を開いたことに由来する(同書)


塩屋村
しおやむら

[現在地名]洲本市塩屋一―三丁目・宇山うやま一丁目・塩屋

洲本府の北、洲本川下流左岸の低地にある。東部は武山たけやま山地の水を集めた陀仏だぶ川が潟に注いだのち洲本川に流入。その内陸はいな池という湿地になっていた。津名つな郡に属する。天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録に「しほや」とみえ、二〇石五斗五升分が脇坂安治領となっていた。正保国絵図に村名がみえ、高四三石余。天保郷帳では高六七石余。千草組に属した。反別戸数取調書によれば反別一〇町余、高一一〇石余、うち蔵入高一石余、一一三石余が稲田九郎兵衛の給知。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう塩屋

伊万里湾東岸の岬と島と干拓地からなる村で、字名に金剛島こんごうじま城平じようびら浜開はまびらき灰崎はいざき新開しんかいうらはま散浦さんのうらなどがある。城平には波多三河守の家臣、黒川左源太夫が居城したうばヶ城跡がある(→小黒川村。元和検地では黒川村の「塩屋新田」とされ、慶長一〇年(一六〇五)に完成した黒川新田開発による新田村(→黒川村。天保郷帳では「塩谷村」。

文化年中記録によれば「畝数五町七段九畝二十九歩」とある。黒川新田を造成した締切堤を横土井よこどいとよぶ。干拓造成に関する伝承があり、旧七月一四日には恩恵を謝する「モッコ踊」が、横土井北側小丘上のりゆう神宮に奉納されてきた。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]鹿児島市谷山塩屋町たにやましおやちよう東谷山ひがしたにやま一―二丁目・小松原こまつばら一―二丁目・谷山中央たにやまちゆうおう二―五丁目・和田わだ一丁目

上福元かみふくもと村・下福元村の東に位置し、東は海に面する。北は宇宿うすき村、南は和田村。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名はみえず、福本ふくもと村に含まれていたものとみられる。「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高三一二石余。当村は上・中・東・西・和田の各塩屋に分れており、住民は農耕の傍ら海浜で製塩を行っていた。中塩屋に塩釜しおがま神社があり、塩業者の信仰を集めた。玉里島津氏の別邸が東部の小松原にあった。幕末に島津久光が次子忠済のために建てたもので、忠済と夫人が居住した。建物は平屋六〇坪で、周囲には松が植えられていた。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]安岐町塩屋

東は伊予灘、南は奈多なだ(現杵築市)、北は下原しもばる村。荒木あらき川右岸に広がる水田は江戸中期以降の開発になるが、西部の荒巻あらまき地区には条里の遺構がある。集落は東部のはまと南部のはるおよび横谷よこだにに立地する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三八三石余、家数三六、うち百姓七、隠居・名子・下人・庭屋・へ屋・牛馬屋二三、人数八〇、うち百姓七・名子六、牛一五・馬三。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]唐津市松南町しようなんちよう

かがみ村の北、松浦川右岸、虹の松原にじのまつばらの南の平坦地。唐津藩初代藩主寺沢志摩守が慶長年間(一五九六―一六一五)松浦川を改修し、川州であった土地を開拓してつくった村。この時、松浦川右岸に石垣堤防七八八間を築き、四三町一段一畝一九歩の新田を開いた。その時、新田地には外新開ほかしんかい北新開きたしんかい中新開なかしんかい・新開と、字名に新開がつけられた。開拓以前は大半が塩田であったので塩屋村と称したという。村内に塩竈しおかま神社があったが、明治の中頃鏡神社境内に移された。鏡神社境内の石碑に「当塩屋新田屋布竹林共奉寄進千仏院持領施主相蓮社応誉支元上人延宝六年五月大吉祥日」とある。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]若松区塩屋・ひびきの

小敷こしき村の東に位置し、北は川を隔てて蜑住あまずみ村・払川はらいがわ村、東は本城ほんじよう(現八幡西区)。集落は店屋てんや(本村)および小塩屋こしおや・矢戸・福田ふくでん・徳重の五ヵ所(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳では有毛ありげ村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付された。慶長七年(一六〇二)の検地高六二石余、うち大豆六石余(慶長石高帳)。元禄元年(一六八八)から享保五年(一七二〇)は直方藩領であった。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]引田町引田

小海おうみ川中流域の農村、北と東は引田村。寛永国絵図では引田郷に含まれる。村高は寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一三七石余。行政的には南の吉田よしだ村と一括されることが多く、庄屋も日下氏・渡瀬氏など大内おおち郡大庄屋の兼帯であった。年貢は引田御蔵に納めた。小物成は同一九年で綿四六匁五分(高松領小物成帳)、安永四年(一七七五)には塩屋・吉田二村で真綿一四三匁余、うち一一六匁余は銀納(日下文書)


塩屋村
しおやむら

[現在地名]鹿児島市甲突町こうつきちよう城南町じようなんちよう錦江町きんこうちよう南林寺町なんりんじちようなど

鹿児島城下の東に位置し、南は甲突川を隔てて荒田あらた村。もとはたけ村のうちで、その飛地とされていたが、寛永五年(一六二八)に分立し、その際塩竈しおがま神社が勧請されたという。「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高二八五石余、「以前は武村より差引為有之由候、其後一名ニ被召立候哉、武村の内共不相知由、郷村帳ニ有」とある。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]長洲町永塩ながしお

西部を菜切なきり川が南流し、北は永方ながかた村、南は平原ひらばる村・清源寺せいげんじ村、東は宮崎みやざき村と接する。立地上および慶長国絵図などに村名がみえぬことなどから、近世初頭頃までは有明海の入海であったと推定され、おそらく「藤公遺業記」に記す慶長一二年(一六〇七)加藤清正による菜切塘と塩屋塘の干拓築堤に伴って成立したものと思われる。字井樋口いびぐちの菜切塘には樋門がおかれていたが、寛文四年(一六六四)下流に新塘が築堤されたために取壊されたと伝える。荒尾手永に属する。「国誌」に高九五石三斗余とある。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]南淡町阿万塩屋町あましおやまち

北境を上本庄かみほんじよう・下本庄・阿万西あまにしの三ヵ村と接し、上本庄村から流れる塩屋川が中央部を南流し、河口付近で本庄川と合流し海に注ぐ。村域は南北に長く、南端は吹上ふきあげ浜、北端は福良ふくら湾と両端が海に面する。寛永四年(一六二七)の蜂須賀氏による塩屋村検地帳(安冨家文書)では反別三一町六反余・高五八四石余。正保国絵図では高四二七石。天保郷帳では高九〇六石余。阿万組に属した。反別戸数取調書によると反別七六町四反余、高一千石余、うち蔵入高四一一石余。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]和歌山市塩屋一―六丁目・秋葉あきば町・打越うちこし

海部あま郡に属し、宇須うず村の南に位置する。「続風土記」に「此村西南に御坊山・愛宕山を負ひて東に雑賀川を帯ひ、一湾曲の地にして古は海浜の村なれは専塩を焼しより村名とはなれり、土俗小塩屋といふ」とある。慶長検地高目録によれば高一四〇石余、小物成三六石余。当村は加子役を負うており、元和五年(一六一九)の加子米納申帳(栗本家蔵)によると、加子役数二七人。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]浜島町塩屋

浜島湾奥にあり、東の迫子はざこ村、西の檜山路ひやまじ村に接する。村名やカマムケ・クラモトという字名などは製塩が行われたことを示している。伊勢国山田などへ売りに出る商人もあり、明治初期まで製塩は行われていた(鳥羽志摩新誌)。しかし漁業にはほとんど従事せず浦役はなかった。近世を通じて鳥羽藩領で英虞あご郡に属した。享保一一年(一七二六)村差出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一〇一・〇五二石のうち山年貢高八斗が前々から引かれている。おもな小物成は夫米三・五四三石、山年貢銀一五匁。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]高山市塩屋町

漆垣内うるしがいとう村の南東、大八賀だいはちが川上流側にある。さらに上流へは南の大島おおしま村への道と、東方へ同川支流たき川沿いに粟畑あわはた峠を越えて滝村への道がある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では大八賀郷に村名がみえ、松本まつもと村など三村で高付される。同一八年の郷帳では塩屋村として高一七八石。元禄検地反歩帳の高二〇八石余、田一一町余・畑三町四反余。「飛騨国中案内」では四割八分八厘、家数三六、うち百姓三〇・地借六。


塩屋村
しおやむら

[現在地名]宮川村塩屋

宮川右岸にあり、南西対岸は打保うつぼ村。「斐太後風土記」に「天正以前は大沢上村といひしが、菅沢村と云しか」とある。元禄検地帳(宮川村文書)では小島こじま郷に属し、高四〇石余、田一町三反余・畑六町四反余、漆五畝余。ほかに焼畑三町三反余があり、名請人一三人、ほかに中沢上なかぞれ村からの入作一人、屋敷持一五人、うち家抱え二人。「飛騨国中案内」では免二割八分二厘余、家数一五(うち百姓一四・門屋一)


塩屋村
しおやむら

[現在地名]丹生川村塩屋

北東は旗鉾はたほこ村、西は同村枝村の曾手そで村に接する。小八賀こはちが川は集落の南を西流し、平湯ひらゆ街道が川に沿ってほぼ東西に走る。縦四町・横一町(斐太後風土記)の小村。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえ、高一九石余(畑方)、物成高五石余。元禄検地反歩帳の高九石余、畑一町七反余。「飛騨国中案内」によれば免は四割七分九厘、家数九、うち百姓八・地借一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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