大正村
たいしようむら
大正一三年(一九二四)から昭和二二年(一九四七)まで存続した河西郡の村。大正一三年二月、二級町村河西郡大正村から同郡川西村が分離。これにより二大字となった。同一四年の国勢調査による人口は四千六一八人。同一五年四月、中川郡幕別村(現幕別町)大字別奴村のうち字途別・下イタラタラキ・札内、大字幕別村のうちサラベツの一部を編入、四大字を編成し、同時に郡境を東寄りに変更した。大正村は広大な開拓適地と二一五戸・一千二六五人を編入し、戸口は八八五戸・五千一四四人となった(帯広市史・大正村史)。
大正村
たいしようむら
大正四年(一九一五)から同一三年まで存続した河西郡の村。大正四年四月、河西郡帯広町外四村組合が廃され、幸震・売買・上帯広の三村が合併して大正村となり二級町村制を施行。大正時代に誕生した新村であることから大正村と命名された。幸震村・売買村・上帯広村の三大字を編成(大正村史)。大正三年からの第一次世界大戦による好景気で、十勝地方は豆成金、雑穀成金、澱粉成金が出現。当村は「日本一豆の国」と称した(川西村史)。同九年一二月には大字売買村の晩成社農場跡地に北海道製糖株式会社(現日本甜菜製糖株式会社)帯広工場が操業を開始。これが日本における最初の本格的なビート糖工場である。
大正村
たいしようむら
昭和二二年(一九四七)から同三二年まで存続した河西郡の自治体。昭和二二年九月同郡大正村から中札内村・更別村が分村し、大字幸震村・別奴村・幕別村・売買村の四大字が残った。戸口は八九二戸・五千一六一人。同二七年には川西農業高等学校(現帯広農業高等学校)大正分校が開校(のち帯広市立北海道帯広大正高等学校)。同二九年途別川の改修工事が着工された。同三〇年には当村一帯で栽培されていた赤い金時豆が農林省により大正金時の銘柄に認証された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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