多賀国府(読み)たがこくふ

日本歴史地名大系 「多賀国府」の解説

多賀国府
たがこくふ

古代末から中世にかけての陸奥国の国府。八世紀前半に多賀城が築かれて以後、国府は多賀城に置かれており、九世紀初頭に胆沢いさわ(現岩手県水沢市)ができるまでは鎮守府も併置されていた。多賀城の発掘調査の結果、政庁をはじめとする諸施設は一〇世紀中頃には廃絶したことが判明している。ところが、この後の文献にはしばしば多賀国府の名がみえ、そこには鎌倉幕府によって陸奥国留守職が置かれ、建武政権樹立の際には陸奥将軍府が設けられている。南北朝時代には多賀国府は南北両勢力の争奪の対象となり、この争乱を収めた奥州探題の斯波氏が県北の大崎おおさき地方に根拠地を移すのを境に史料上から姿を消している。この多賀国府がどこにあったかについては、多賀城跡とする説、仙台市岩切いわきり説、宮城郡利府りふ森郷もりごう説などがある。従来は多賀城跡説がやや有力視されていたが、これまでの発掘調査では多賀国府の施設とみられるような明確な遺構は発見されていない。したがって多賀国府の官衙所在地は今のところまったく不明といわざるをえない。

「台記」康治二年(一一四三)五月一四日条に、陸奥国守藤原佐世が撰した「古今集註孝経」について、「第九巻奥、以朱書云」として「寛平六年二月二日、一勘了、于時、謫在陸奥多賀国府」とある(ただし、朱書部分を「一勘了」までとする説もある)。天喜四年(一〇五六)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は、任期切れにあたって、鎮守府の政務を行うため国府を出発しているが、麾下・内客や自らの妻子を国府に残しており(陸奥話記)、任期中国府で生活していたことがわかる。寛治元年(一〇八七)九月、後三年の役において陸奥守兼鎮守府将軍源義家が清原家衡・武衡の籠る金沢かねざわの館(柵)(現秋田県横手市)に赴く日、大三大夫光任は八〇歳という老齢のため従軍ができず、国府に留まることを嘆いている(後三年記)。なお「今昔物語集」巻一七に「陸奥ノ国ノ国府ニ小松寺ト云フ寺有リ」とあり、平将門の孫といわれる小松こまつ寺住僧蔵念は、国内の貴賤より生身の地蔵菩薩と敬われたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の多賀国府の言及

【多賀城】より

…869年(貞観11)には,陸奥国を大地震がおそい,国内はもとより多賀城も大被害をうけた。陸奥国の軍事的緊張が和らぐと,多賀城は多賀国府などと呼ばれるようになり,奥州藤原氏が東北に勢力をふるうようになった平安末には,多賀城も東北のかなめの地位を平泉にゆずることとなった。しかしいわゆる奥州征伐のおりには,源頼朝が多賀国府に立ち寄り,命を下しており,依然としてこの地を無視しえなかったことが知られる。…

※「多賀国府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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