フリードリヒ(読み)ふりーどりひ(英語表記)Caspar David Friedrich

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フリードリヒ」の意味・わかりやすい解説

フリードリヒ(2世)(プロイセン国王)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅱ
(1712―1786)

プロイセン国王(在位1740~86)。啓蒙(けいもう)絶対主義を代表する名君で「大王」der Großeといわれる。幼少時より文芸、音楽に親しみ、フランスの啓蒙思想の影響を強く受けた。父の「軍人王」フリードリヒ・ウィルヘルム1世とは折り合いが悪く、イギリスに逃亡を企てて逮捕されたこともある。彼が即位前に著し、ボルテールの助力を得て即位の年(1740)に出版した『反マキャベッリ論』には「君主は人民の第一の下僕」とあり、これは啓蒙絶対主義の理念を示すことばとして有名になった。

 しかし、即位後の治世は戦争に次ぐ戦争である。まず2回にわたるシュレージエン戦争(1740~42、1744~45)でオーストリアからシュレージエンを奪取。これによりオーストリア女帝マリア・テレジアの恨みを買い、オーストリアがフランス、ロシアと結んでプロイセン包囲網をつくると、1756年先手を打って戦いを仕掛け、以後63年までの7年間、ほとんど全ヨーロッパ列強を相手に勇戦し(国民人口からすると500万人対9000万人の戦いであった)、何度も窮地に陥りながら耐え抜いてシュレージエンを確保した。しかし戦争で受けた国の被害は大きく、以後国王は、外交的には現状維持を図りつつ、国力の回復と増強のために国民に率先して働いた。起床は夏は4時、冬でも5時で、1日のうち国務に10時間、読書と著述に4時間、社交と音楽に2時間をあてるのが日課であった。彼の施政では、言論・信教の自由の承認や法典の編纂(へんさん)事業などに啓蒙主義者としての面目が現れ、また国内の開拓や植民、農法の改善や産業振興策にもみるべきものがあるが、経済政策は概して重商主義の枠内にとどまり、また社会の身分制的編成を擁護し、貴族を偏重するなど、啓蒙主義者らしからぬ面もあった。しかしともあれ彼はその治世の間、シュレージエン獲得のほか、第一次ポーランド分割(1772)によって国土を大幅に拡大するとともに、父親から受け継いだ700万ターラーの国庫準備金を5000万ターラーに増やした。

 フランス文化の心酔者であった彼は、即位後ベルリン近郊のポツダムにロココ風の宮殿を造営、これを「サン・スーシ(無憂)宮」と名づけて、ここで政務のかたわらボルテールなど彼が招いたフランス文人との交遊を楽しんだ。「サン・スーシの哲学者」とよばれたように当代一流の文化人だったが、ドイツ文化に対する理解は乏しかった。

[坂井榮八郎]

『ディルタイ著、村岡晢訳『フリードリヒ大王とドイツ啓蒙主義』(1975・創文社)』『村岡晢著『近代ドイツの精神と歴史』(1981・創文社)』


フリードリヒ(1世)(ドイツ国王、神聖ローマ皇帝)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅰ
(1125ころ―1190)

シュタウフェン朝2代目のドイツ国王(在位1152~90)、神聖ローマ皇帝(1155~90)。バルバロッサBarbarossa(赤髯(あかひげ)王)とよばれる。叔父コンラート3世の死後、後継国王に選ばれた。叙任権闘争以後弱体化したドイツ王権の強化を目ざし、とくに崩壊に瀕(ひん)したイタリアにおける支配権を再建すべく、精力的にイタリア政策を展開した。最初のイタリア遠征(1154~55)で皇帝として戴冠(たいかん)を受けたのち、ブルグント王国の相続人ベアトリクスと結婚(1156)、王国をふたたび帝国に編入し、さらに1158年から83年まで5回に及ぶイタリア遠征を行ったが、ロンバルディア都市同盟、教皇、これを支援するシチリア王国の頑強な抵抗を受け、レニャーノの戦い(1176)で決定的敗北を喫し、和解を余儀なくされた。その際彼は巧みな外交手腕を示し、イタリアにおける皇帝の宗主権を承認させ、息子ハインリヒシチリア王女コンスタンツェの結婚を実現させるのに成功した。国内では、シュワーベンを中心に多くの帝国直轄領を創設し、各地に都市建設を行って王権の経済的基礎を固め、他方巧みに国内諸侯の勢力均衡を図りながら、国王を頂点とする封建的ヒエラルヒーに組み込んでいく政策を遂行した。最大の対抗勢力、ウェルフ家のザクセン大公ハインリヒ獅子(しし)公に対し、前王が没収したバイエルン大公領を返還、和解を図ると同時に、その一部をオーストリア大公領としてバーベンベル家に授封した。さらに、獅子公がザクセン領内で紛争を起こし、訴えられた機会をとらえて、失脚させるのに成功し、没収した大公領を解体・分割して諸侯に授封した。かくしてシュタウフェン朝の支配権を確立したのち、第3回十字軍に従軍したが、途中小アジアで水浴中溺死(できし)する非運にみまわれた。

[平城照介]


フリードリヒ(2世)(ドイツ国王、神聖ローマ皇帝)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅱ
(1194―1250)

シュタウフェン朝のドイツ国王(在位1212~50)、神聖ローマ皇帝(1220~50)。皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの息子。父帝が若死にしたため(1197)、シチリアの母后のもとで育てられた。母后は息子のドイツ王位継承権を放棄、シチリア王として即位させ、教皇インノケンティウス3世を後見人に選んだ。だがウェルフ家のドイツ国王オットー4世がイタリアに勢力を伸ばし、教皇と争うに至り、1211年教皇はフリードリヒを対立国王に推し、翌年フリードリヒはドイツに赴き、シュタウフェン派諸侯に支持されてアーヘンで即位式をあげ、フランス国王フィリップ4世と結んでオットー4世を破り、支配権を確立した(1214)。しかしフリードリヒ2世の主要な関心はシチリア王国の経営に向けられ、それに専心すべくまもなくイタリアに帰還(1220)、ドイツの統治は息子のハインリヒ、ついでコンラートにゆだね、その結果、ドイツ国内の諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされ、二度(1220、32)にわたり「協約」を結んで聖俗諸侯に多くの特権を与えた。他方シチリア王国では着々と近代的統治機構を整え、学芸を奨励して、後世の歴史家から「王座の上の最初の近代人」と称賛されたが、十字軍に不協力のかどで教皇から破門され、以後教皇との確執に悩まされた。1228年独力でエルサレム遠征を行い、帰国後、一時教皇と和解したが、ふたたび教皇と結んだロンバルディア諸都市と争い、息子ハインリヒにも背かれ、リヨン公会議で皇帝廃位を宣言され(1245)、その死とともにシュタウフェン王朝は事実上崩壊した。

[平城照介]


フリードリヒ
ふりーどりひ
Caspar David Friedrich
(1774―1840)

ドイツの画家。9月5日グライフスワルトに生まれ、1794~98年コペンハーゲンの美術学校に学ぶ。以後ドイツ・ロマン派の拠点ドレスデンに定住して、画家オットー・ルンゲ、詩人ノバーリス、ティーク、ノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダール、医者で画家のカール・グスタフ・カールースらと同志的な交わりを結ぶ。1807年木版および素描(セピア画)から油彩に転じ、風景とロマン派的な宗教感情を融合した『山の十字架』(ドレスデン絵画館)を描いて独得の画風を確立する。24年以後はドレスデン美術学校教授を務めた。彼は「風景における悲劇の発見者」といわれ、主として北ドイツの荒涼とした原野や森や廃墟(はいきょ)やフィヨルドの眺望を、旅愁、憧憬(しょうけい)、悲哀などの情感を込めて描き、ドイツ・ロマン派最大の風景画家とされる。40年5月7日ドレスデンで死去。代表作に『海辺の僧侶』(ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿)、『ウァッツマン山』(ドレスデン絵画館)、『希望号の難破』(ハンブルク美術館)などがある。

[野村太郎]



フリードリヒ(美王)
ふりーどりひ
Friedrich der Schöne
(1286―1330)

ハプスブルク家のドイツ国王(在位1314~30)。オーストリア大公としてはフリードリヒ3世(在位1308~30)。端麗な容姿のため「美王」とよばれた。ドイツ国王アルブレヒト1世の息子。ルクセンブルク家のドイツ国王ハインリヒ7世の死後、選帝侯は二派に分かれ、一方はウィッテルスバッハ家のルートウィヒ4世を、他方はフリードリヒを国王に選んだ(1314)結果、両者は王位をめぐって長期間争うことになった。1322年ミュールドルフの戦いでフリードリヒは決定的に敗北、捕虜となったので、ルートウィヒの単独支配が実現した。ルートウィヒが教皇と争い、皇帝戴冠(たいかん)を目ざしてイタリア遠征を行ったのち、フリードリヒは釈放され、共同統治権を認められた。

[平城照介]


フリードリヒ(3世)(ザクセン選帝侯)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅲ
(1463―1525)

ザクセン選帝侯(在位1486~1525)。賢公der Weiseとよばれる。人格高潔で識見も高く、ドイツ諸侯中で重きをなした。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、皇帝選挙で皇帝に推されたが辞退し、カール5世の選出を援助した。ウィッテンベルク大学を創設(1502)、ルター、メランヒトンを招き、その結果、同大学を宗教改革の拠点たらしめることになった。ルターの改革が起こると、顧問官シュパラティンの助言を受けて、保護の立場をとり、1521年ウォルムス国会でルターが帝国追放を宣せられると、彼をワルトブルク城にかくまった。宗教的にはカトリック信仰に厚く、聖遺物収集家として知られたが、死の直前、新教に改宗した。

[瀬原義生]



フリードリヒ(1世)(プロイセン国王)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅰ
(1657―1713)

初代プロイセン国王(在位1701~13)。1688年、父の「大選帝侯」フリードリヒ・ウィルヘルムからブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国を相続し、当初、選帝侯フリードリヒ3世と名のったが、1700年神聖ローマ皇帝からプロイセンについて国王の称号を許され、翌年プロイセン国王フリードリヒ1世としてケーニヒスベルクで戴冠(たいかん)した。外面を飾り、贅沢(ぜいたく)な宮廷生活を営んだが、学芸には理解があり、彼の治世中にハレ大学(1694)、芸術アカデミー(1696)および科学アカデミー(1700)が創設された。また妃のゾフィー・シャルロットのために華麗なシャルロッテンブルク宮殿を造営している。

[坂井榮八郎]


フリードリヒ(3世)(ドイツ皇帝、プロイセン国王)
ふりーどりひ
Friedrich Ⅲ
(1831―1888)

ドイツ皇帝、プロイセン国王(在位1888)。イギリスのビクトリア女王の第一王女ビクトリアと結婚し、彼女の影響などから自由主義思想に傾き、父王ウィルヘルム1世から王位継承権放棄を迫られたこともあった。自由主義者たちから「われらがフリッツ」とよばれ、父王とビスマルクとの政策にしばしば公然と反対した。他方プロイセン・オーストリア戦争(1866)やプロイセン・フランス戦争(1870~71)では司令官として戦功をたて、ビスマルクと協力してドイツ統一の功労者となった。彼の即位は自由主義者の期待を集めたが、喉頭癌(こうとうがん)に侵されて在位99日で死去し、国政に自己の意志を反映させることができなかった。

[岡崎勝世]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フリードリヒ」の意味・わかりやすい解説

フリードリヒ
Friedrich, Caspar David

[生]1774.9.5. ポンメルン,グライフスワルト
[没]1840.5.7. ドレスデン
ドイツの風景画家。 1794~98年コペンハーゲンのアカデミーに学び,98年ドレスデンに定住。 1801年 O.ルンゲを知り,C.カールスや作家のノバーリス,シュレーゲル兄弟,L.ティークらとともにロマン派のグループを形成,ドイツ・ロマン主義絵画の代表的画家となる。近景から無限の遠方に広がる神秘的な風景画を得意とした。 24年ドレスデン・アカデミーの員外教授。正教授になることなく不遇な晩年をおくったが,20世紀に入ってその人と画業が再発見された。代表作『山中の十字架』 (1808,ドレスデン国立絵画館) ,『海辺の修道士』 (10,ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿) ,『月を見る2人の男』 (19,ドレスデン国立絵画館) 。

フリードリヒ
Friedrich, Carl Joachim

[生]1901.6.5. ライプチヒ
[没]1984.9.19. マサチューセッツ,レキシントン
ドイツ出身のアメリカの政治学者。ハイデルベルク大学で博士号を得て,1926年からハーバード大学に奉職,38年アメリカ市民権を得る。 62~63年にはアメリカ政治学会の会長をつとめた。非行動科学系の学風を守り,権力概念の分析や比較政治学の領域にすぐれた業績を残している。主著『立憲政治と民主主義』 Constitutional Government and Democracy (1937) ,『伝統と権威』 Tradition and Authority (72) 。

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