朝日日本歴史人物事典 「大浦教之助」の解説
大浦教之助
生年:寛政5(1793)
幕末の対馬藩士。名は和礼。文政年間(1818~30)に出仕し,以後累進。一度引退したが,万延1(1860)年に藩主の側室碧の一派を排斥して善之允(宗義達)を世子とするのに尽力し,再勤。翌文久1(1861)年ロシア艦浅茅湾滞泊事件では問情使としてロシア側と強硬談判を行い,翌年の家老佐須伊織打倒以後は尊王攘夷派(義党)のリーダーとして藩政を主導して,加判列(家老)にまで上った。元治1(1864)年には藩校日新館を創設して尊攘派の拠点とし,長州藩を支援した。しかし,勝井五八郎が政権を握って尊攘派に大弾圧を加えたため獄死し,死体は梟首された。天文,算術にも長じていたという。<参考文献>賀島砥川『対馬志士』,『長崎県史 藩政編』
(木村直也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報