大浦教之助(読み)おおうら・のりのすけ

朝日日本歴史人物事典 「大浦教之助」の解説

大浦教之助

没年元治1.10.24(1864.11.23)
生年:寛政5(1793)
幕末対馬藩士。名は和礼。文政年間(1818~30)に出仕し,以後累進。一度引退したが,万延1(1860)年に藩主の側室碧の一派を排斥して善之允(宗義達)を世子とするのに尽力し,再勤。翌文久1(1861)年ロシア艦浅茅湾滞泊事件では問情使としてロシア側と強硬談判を行い,翌年家老佐須伊織打倒以後は尊王攘夷派(義党)のリーダーとして藩政を主導して,加判列(家老)にまで上った。元治1(1864)年には藩校日新館を創設して尊攘派の拠点とし,長州藩を支援した。しかし,勝井五八郎が政権を握って尊攘派に大弾圧を加えたため獄死し,死体は梟首された。天文,算術にも長じていたという。<参考文献>賀島砥川『対馬志士』,『長崎県史 藩政編』

(木村直也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大浦教之助」の解説

大浦教之助 おおうら-のりのすけ

1793-1864 江戸時代後期の武士
寛政5年生まれ。対馬(つしま)(長崎県)府中藩士。勘定奉行,大目付などをへて加判列(家老)となる。元治(げんじ)元年藩校日新館の創設を主宰禁門の変ののち,佐幕派の勝井五八郎により,尊攘(そんじょう)派の首謀者として投獄され元治(げんじ)元年10月25日獄死した。72歳。名は和礼。通称は別に喜左衛門。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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