大浦町(読み)おおうらまち

日本歴史地名大系 「大浦町」の解説

大浦町
おおうらまち

[現在地名]長崎市大浦町

東山手ひがしやまて町の南西にあり、大浦海岸通(常盤町)の裏手にあたる。東はうめさき、南は十人じゆうにん町と接する。オウラとよばれた(明治二四年「長崎港精図」長崎図書館蔵)。中世から大浦などとみえる。雄浦おうらともよばれ、老松が崖下に梢を垂れ、漁舟が出入りするその美しい海は長崎八景の一つとして大浦落雁・雄浦夕照などで親しまれるとともに、五島や肥後天草あまくさなどと結ぶ湊でもあった。江戸時代は戸町とまち村のうちで、寛永二一年(一六四四)の西宗真答弁書(本受寺文書)に大村「領内大浦」とみえ、かつて大村に居住していた西類子が親の宗源以来の筋目を認められて大浦に高七〇〇石余の地を合力として下され、慶長一二年(一六〇七)六月に呂宋への渡航朱印状を与えられた(「徳川家康朱印状」同文書)正保国絵図では大浦からみずノ浦まで四町八間で、地内にしい崎がある(大村見聞集)。享保三年(一七一八)当時、長崎異変の際の大村領内の七口の警固体制のうち「大浦口」並以羅林いらばやし口では足軽大将馬廻目付各一・給人二・弓銃之者長柄足軽各五・人足六が配備された(九葉実録)。安永七年(一七七八)および享和二年(一八〇二)の長崎絵図に大浦とみえ、深い入江が描かれる。寛政九年(一七九七)の「長崎歳時記」に大浦は大村領にして崎中の南西にあたり、「詞人など大浦を雄浦と作る」と記される。文化一〇年(一八一三)八月、「戸町村枝大浦」などを測量、大浦番所と称される大村領番所が置かれた(伊能忠敬測量日記)。嘉永三年(一八五〇)大村領戸町村字大浦の清蔵が無宿の者に届出もなく家を貸したとして吟味を受けた。当時の大浦に乙名・組頭が置かれていた(口書集)

長崎湊のうちにあるため、出入りする船に関連することが多く記録される。元禄六年(一六九三)三月大村領内に流れた唐船の船具を福田ふくだ浦から取寄せ、大浦で引渡した。八月大浦の前で七三番咬船が破船した。同七年九月大村領大浦で唐船の古綱が猟師らの網に引掛かって、立山たてやま役所・西役所は唐通事仲間をよび、そのあと検使を派遣している。同一一年一月破船の濡荷物が「大浦之川」で洗われている。


大浦町
おおうらちよう

面積:三八・一九平方キロ

加世田市と枕崎市によって東西に分断された川辺郡の西側中央に位置する。東は加世田市、南は坊津ぼうのつ町、西は同町および笠沙かささ町に接し、北は東シナ海に面する。東・西・南の三方を山に囲まれ、中央を大浦川が北流して海に注ぐ。海岸沿いを加世田市と笠沙町を結ぶ国道二二六号が通り、ほかに津貫つぬき峠・久志くし峠・秋目あきめ峠の各峠越の県道が走る。近世以降の干拓によって現在は海岸線が北へ延びているが、それ以前は深い入江(大浦湾)となっていた。縄文時代の遺跡はこの入江周辺の台地上と大浦川上流域に集中している。


大浦町
おおうらまち

[現在地名]弘前市大浦町

三の郭の堀に沿って南北に町並が延び、北は亀甲かめのこう町、南は下白銀しもしろがね町、東は蔵主くらぬし町と接する。町内を東西に二階にかい堰が流れる。

「奥富士物語」に、慶長一五年(一六一〇)の弘前城築城と町割に際し、城内三の丸に大浦町があり、「中身已上之面々」が居住したとある。正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)によれば、現町域は町屋として町割されており、三の丸のどの地域が大浦町であったかは不明。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には、大浦橋を境として、南が大浦町、北が大浦町下町おおうらまちしものまちとされる。ただし蔵主町との間には、黒石くろいし町・黒石町下町畳くろいしちようしものまちたたみ町があり、町屋を形成。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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