大田北村
おおだきたむら
[現在地名]大田市大田町大田
安濃郡のほぼ中心部に位置し、北は刺賀村、東は山中村・円城寺村、西は東用田村、南は大田南村。村の南方を三瓶川(大田川)が南東から北西へ貫流し、東用田村を経て静間村で静間川と合流して日本海へ注ぐ。「和名抄」に載る安濃郡邑
郷の遺称地とされ、中世は大田北郷とよばれた。
〔中世〕
貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「大たの郷 卅四丁二反三百卜」とあり、続けて記載される「同ミなミの郷」に対して北郷をさしていると思われる。建武三年(一三三六)九月日の久利赤浪妙行代子息朝房軍忠状(久利文書)に「大田北郷地頭土屋六郎」とみえ、同月三日、赤浪朝房が稲用郷の金剛山で南朝方の三隅二郎入道・河上孫三郎入道らと戦ったとき、土屋六郎は河合郷地頭金子孫五郎・波禰五郎右衛門尉とともに北朝方として参戦している。永享一二年(一四四〇)九月一〇日の石州諸郡段銭注文(益田家文書)によると、大田郷に段銭が賦課されている。天文一三年(一五四四)九月一一日、大田松山城(城山)に居城していた佐和連盛は「大田きた市庭かわらけ屋敷」を大田北八幡宮の神主布施八郎二郎の娘に与え、公役などは市場並みに納めるよう定めている(「佐和連盛知行安堵状」白石家文書)。大田きた市庭とは大田北郷にある市場と考えられ、円応寺に所蔵される菊月権律師の筆による天正一六年(一五八八)の「円応寺薬師縁起」によると、円応寺薬師堂は天正一一年に大田村北之郷の主佐和奥連により創立され、その開眼供養に際し諸国商人が「異国之珍物」を持寄り、「旅客之宿所」もでき「長安之市」のような賑いであったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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