日本大百科全書(ニッポニカ) 「天真正伝神道流」の意味・わかりやすい解説
天真正伝神道流
てんしんしょうでんしんとうりゅう
室町時代におこった刀槍(とうそう)の術の源流的流派で、香取(かとり)社にゆかりが深いので香取神道流といい、単に神道流ともいう。流祖の飯篠長威斎(いいざさちょういさい)家直(いえなお)(1421?―1488)は、下総(しもうさ)国香取郡飯篠村(千葉県多古(たこ)町大字飯篠)の郷士で、幼少より刀槍の術に優れ、壮年のころ上洛(じょうらく)して将軍義政(よしまさ)に仕えたと伝え、山城守(やましろのかみ)のち伊賀守と称した。
家直は60歳を超えて、この術を天下に現さんと志し、香取社域の南東隅にある梅木山不断所(ばいぼくざんふだんしょ)に一千日参籠(さんろう)し、日夜木刀を振って庭前の立木を撃刺し、ついに数百の形を考案し、一流を編み出したという。古来より武神を祀(まつ)る香取・鹿島(かしま)の社家(しゃけ)・神人(じにん)の集団には、各種の武芸が伝承されてきたといわれ、この神道流は、これらを刀槍の術を中心に体系化することに成功したものである。軍法、剣術、薙刀(なぎなた)、槍法、抜刀、棒術などを包括する総合武芸で、近世諸流派の先駆的役割を担った。
その門人に、剣術では松本備前守(びぜんのかみ)政信(まさのぶ)や塚原土佐守安幹(やすもと)(卜伝(ぼくでん)の養父)らを、また門流には塚原卜伝(鹿島新当流の祖)、松岡兵庫助則方(のりかた)、有馬大和守(やまとのかみ)乾信(有馬流の祖)、諸岡一羽(もろおかいっぱ)などを輩出した。また嗣子(しし)の若狭守(わかさのかみ)盛近(もりちか)は家芸を受けて、とくに槍術の達人として知られ、ついで盛信、盛綱と継いで、盛綱の門に、新道流長太刀(ながたち)(穴沢(あなざわ)流)を唱えた穴沢主殿助(とのものすけ)(雲斎)を出し、その門に、樫原(かしはら)流槍術を始めた樫原五郎左衛門俊直(としなお)を出している。なお幕末の15代飯篠修理亮(しゅりのすけ)盛重(もりしげ)は剣名高く、流名を香取神刀(かとりしんとう)流と称した。
[渡邉一郎]