(1)戦場において、敵を倒し、自分の身を守るための攻防の技術。武技。武術。
(2)武者、侍、武士たちが日常習練すべき技芸、武道芸術、武用芸術などの略。その内容は時代によって異なるが、近世初頭の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』や『清正記(せいしょうき)』には、馬、兵法(ひょうほう)(剣)、弓、鉄砲の四つをあげ、武芸四門とよんでいる。このうち鉄砲は幕府の統制強化のため後退を余儀なくされ、ついで中期には、武士のたしなみとして弓・馬・剣・槍(やり)の四つが重視され、これに柔・砲・兵学を加えて七芸と称したり、また十四事(じ)、十八般、二十八般などの名数がある。
[渡邉一郎]
一般に武術・武技の進歩は、武器・武具の発達と、これに伴う戦闘方式の変化に相応じている。わが国でも古代、すでに矛(ほこ)、剣(つるぎ)、刀にまつわる神話が多く語られているが、5世紀末~6世紀の統一国家形成期につくられた後期古墳からの出土品には、騎馬のための精巧な馬具や弓矢・装具、および埴輪(はにわ)などが多数発見されている。ついで唐の制度を模倣した律令(りつりょう)制下の軍団では騎射や軍陣についての調練が行われ、また京の衛士(えじ)たちにも弓馬を教習し、「弓を用い槍を弄(ろう)し、および弩(ど)を発(はな)つ」訓練を実施している。軍防令には、これら「武芸」に優れた者を大毅(だいき)・小毅に採用するとしている。平安初期の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』にも武芸の語がみえるが、これはまさに騎射の技(わざ)をさしたもので、弩は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の東北経営に新しい兵器として絶大な威力を発揮したと伝えられるが、これら大陸系の武器・武具は律令兵制の衰微とともに用いられなくなった。
平安中期以降、律令体制の衰退とともに、地方の武士が興起し、やがて兵馬の権は武士階級の掌握するところとなった。11世紀のなかば、前九年・後三年の両役には騎馬に優れた東国の武士が活躍し、さらに12世紀中ごろの保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱を経て、いわゆる源平合戦の時代に入った。当時の戦闘は、騎馬武者による騎射戦を主体とし、従者の郎党たちは徒立(かちだち)となり打物(うちもの)をとって戦った。『平治物語』によれば、当時の武士たちが日常稽古(けいこ)した武芸としては、乗馬、馳引(はせひき)(騎射)、早足(さそく)(脚力)、力持ち(相撲(すもう))などであった。やがて鎌倉時代に入り、武士の地位が向上すると、馬上三物(ばじょうみつもの)(笠懸(かさがけ)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの))や徒立三物(大的(おおまと)、円物(まるもの)、草鹿(くさじし))、遠矢(とおや)などが練武の遊事として愛好された。一方、騎射戦に適応した純日本式の甲冑(かっちゅう)(大鎧(おおよろい))や打物がつくられ、直刀(ちょくとう)から反(そ)りをもった彎刀(わんとう)への転換とともに、鍛刀術も目覚ましい発展をみせ、一段と鋭利さを増し、これとともに操刀の技法も著しく進歩した。この契機となったのは、鎌倉中期の文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)両度(1274、81)の蒙古(もうこ)来襲であった。当時博多(はかた)湾で防備についた西国武士は伝統的な懸合い戦法でこれに対抗しようとしたが、蒙古軍の圧倒的な集団戦術の前に、人馬ともに大打撃を受けたのである。
[渡邉一郎]
こうした苦い経験を経て、鎌倉末から南北朝の動乱期にかけて、戦闘の様相も従来の「一騎懸け」から徒歩兵の集団戦法へと移り、これまで補助的な戦闘員であった所従(しょじゅう)や下人(げにん)らに長刀や槍などの武器を持たせ、激しい接近戦や山城(やまじろ)攻防の大規模な戦闘が展開されるようになった。これとともにしだいに軽武装の腹巻(はらまき)や胴丸(どうまる)が用いられ、また馬上から抜打ちするのに有利な大太刀(おおだち)や、これに対抗するための長刀、長巻、槍などの長柄物の使用が進んだ。そして格闘にもスピードが要求され、室町時代に入るころには、従来の太刀にかえて打刀(うちがたな)を腰間に差すことが流行し、腹巻をさらに簡略化した腹当(はらあて)も用いられた。
一方、文学や芸能における家流の形成、武家故実や礼儀・作法の伝授方式の確立などに触発されて、14世紀末から15世紀にかけて、武術においても、弓馬術の小笠原(おがさわら)流、歩射(ぶしゃ)術の日置(へき)流、馬術の大坪流をはじめ、兵法の中条(ちゅうじょう)流・天真正伝神道(てんしんしょうでんしんとう)流・愛洲陰(あいすかげ)流などの諸流が成立し、江戸時代初期に開花する流派武道の源流となった。この時期の「兵法」は文字どおり実戦本位の武術で、刀と刀だけでなく、刀と短刀(組討(くみうち))・薙刀(なぎなた)・槍・棒・捕縛(ほばく)の諸術と組み合わせて体得する、いわば総合武術であった。
[渡邉一郎]
群雄割拠の戦国時代に入り、各大名は実戦力の増強策の一つとして、「兵法者(ひょうほうもの)」「兵法仁(へいほうじん)」とよばれた武芸の功者(こうしゃ)を盛んに召し抱えたが、彼らの豊富な実戦経験を土台として武術の研究も進み、従来の体験第一主義の技法――臂(ひ)力、筋力、耐久力などに依存した――から脱皮して、機敏性と巧緻(こうち)性を養うためのものへと前進した。さらに1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に伝来した鉄砲が諸大名の間に急速に普及すると、築城法および戦闘方式の一大転換期を迎え、騎馬戦にかわり白兵歩戦が戦局の決定的意味をもつようになった。こうして室町末期から桃山時代にかけて、弓術にかわって台頭した鉄砲術の津田流、および田布施(たぶせ)・稲富(いなとみ)の諸流、小具足(こぐそく)・腰(こし)の廻(まわり)を主体とする柔術の竹内(たけのうち)流、白兵戦の華である剣術には、塚原卜伝(ぼくでん)の鹿島新当(かしましんとう)流、上泉信綱(かみいずみのぶつな)の新陰(しんかげ)流、伊藤一刀斎の一刀流など、多数の流派が成立した。
ついで江戸時代初期には、技法の分析研究も一段と進み、各部門別に独立した「型(形)(かた)」が創案され、あわせて理法にかなった教習体系が整えられ、元和偃武(げんなえんぶ)以後には、時代の流れを受けて禅や儒教などの思想を導入し、心法の深化が図られた。そして寛永(かんえい)~正保(しょうほう)ころ(1624~48)には、これまで秘伝とか口伝(くでん)とかいわれた奥義の文字化が図られ、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の『兵法家伝書』や宮本武蔵(むさし)の『五輪書(ごりんのしょ)』などに代表される、優れた根本伝書が作成された。
さらに幕藩体制の安定した寛文(かんぶん)~延宝(えんぽう)年間(1661~81)には、各藩各様の流儀を採用して師範家を取り立て、武士の家格・家職に即応する武術を習わせるようになった。すなわち、兵学は最上級の家臣、弓馬は上層、ついで剣・槍・砲など、また棒・鎖鎌(くさりがま)・手裏剣(しゅりけん)・捕手(とりて)(柔術)などは徒(かち)以下の軽輩に、薙刀は女子が修得するものとされるようになった。
[渡邉一郎]
平和時代の到来とともに、実戦的で殺伐な戦国の遺風は影を潜め、武士の子弟たちも武術を習うことを敬遠し、安直に免許を得られる流儀を好むようになった。もともと武術の流派は閉鎖的・秘密主義的で、他流試合や廻国(かいこく)修行を禁ずるなど、とかく因循姑息(こそく)の弊に陥りがちであったが、いわゆる元禄(げんろく)時代(1688~1704)には、武術も形式に流れて、技巧の華美を競うようになり、また猥雑(わいざつ)な小武芸も独立して門戸を張るなど、遊芸化の傾向が一段と強まった。また厳正であるべき目録、印可、免許などの授与に金銭や情実が絡んで、金許(かねゆるし)や義理許(ぎりゆるし)がなかば公然と行われるようになり、家元や宗家の規範も弛緩(しかん)して、多数の支流・分派が発生し、武芸界の乱脈ぶりは、世人の厳しい批判を受けるほどになった。
[渡邉一郎]
やがて8代将軍吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)の改革により、武芸への関心がふたたび高まり、さらに田沼時代の開放的な気風を受けて、一部に武術本来の姿に復帰させようとする動きが現れた。その先駆的役割を担ったのは宝暦(ほうれき)~寛政(かんせい)期(1751~1801)に台頭した直心影(じきしんかげ)流、神道無念(しんとうむねん)流、鏡新明知(きょうしんめいち)流などの剣術の新流派であった。彼らは直心影流の長沼四郎左衛門や一刀流中西派の中西忠蔵(なかにしちゅうぞう)らが始めたという面(めん)・籠手(こて)の防具をつけ、竹刀(しない)による打込み稽古を主体とする練習方式を進んで採用し、従来の型剣法の悪弊を打破しようとした。
こうした新流をさらに大きく発展させたのは松平定信(さだのぶ)の「寛政の改革」で、これを契機として全国各地に藩校が設立され、その構内に武芸稽古場や演武館が併設された。このため従来、分散孤立的であった師家道場が統合されて、他流の兼修が可能となり、やがて新流派をも採用する道が開け、その普及とともに他流試合の解禁をみるに至った。
[渡邉一郎]
19世紀の初め、文化・文政から天保(てんぽう)(1804~44)にかけて、兵学・砲術をはじめ在来の武術においても、実戦本位の流派が重用された。とくに剣術では、在野の新流が台頭して、郷士や農民出身の名剣士が多数現れ、武士階級の独占が崩れた。江戸では北辰(ほくしん)一刀流千葉周作(しゅうさく)の玄武館(げんぶかん)、神道無念流斎藤弥九郎(さいとうやくろう)の練兵館(れんぺいかん)、鏡新明知流桃井春蔵(もものいしゅんぞう)の士学館などの有名道場に全国から門人が集まり、また他流試合も盛んとなった。一方、1841年(天保12)高島秋帆(しゅうはん)による徳丸原(とくまるがはら)の西洋銃隊調練以来、幕府や諸藩の間に西洋砲術や歩騎砲三兵(さんぺい)調練に対する関心が高まったが、ペリー来航後、幕府が新設した講武所の教習課目は依然として、剣・槍・銃・水練の四つが主体で、のち一時期、弓・柔の2種も付加されたが、兵制改革後の陸軍所への移行過程で相次いで脱落し、わずかに剣術のみが残された。
[渡邉一郎]
武術・武芸のうち、その主なるもの18種をいう。もともと江戸初期にわが国へ伝えられた中国明(みん)代の兵書や百科辞書などに散見する語で、十八事、十八番ともいう。その種目は選者によって異同があるが、王圻撰(おうきせん)の『三才図会(さんさいずえ)』には「弓(きゅう)・弩(ど)・鎗(そう)・刀(とう)・剣(けん)・矛(ぼう)・盾(じゅん)・斧(ふ)・鉞(えつ)・戟(げき)・鞭(べん)・簡(かん)・槁(こう)・殳(しゅ)・叉(さ)・把頭(はとう)・綿縄套孛(めんじょうとうぼつ)・白打(はくだ)」をもって武芸十八事としている。これを受けて貝原益軒(かいばらえきけん)は『和漢名数続編(わかんめいすうぞくへん)』に武芸十四事として「射(ゆみい)・騎(うまのり)・刀・抜刀(いあい)・撃剣(げっけん)(手裏剣)・眉尖刀(びせんとう)(長刀(なぎなた))・槍・鎌(かま)・棒・鳥銃(てっぽう)・発(いしびや)・火箭(ひや)・捕縛(ほばく)・拳(やわら)」をあげ、ついで『武訓(ぶくん)』には発・火箭にかえて騎射(やぶさめ)(流鏑馬)と水練をあげている。やがて1806年(文化3)兵学者平山行蔵(ひらやまぎょうぞう)は、実戦実用の立場から『武芸十八般略説』を著し、弓・李満弓(りまんきゅう)(鯨半弓(くじらはんきゅう)・駕籠弓(かごゆみ))・弩(おおゆみ)・馬・刀・大刀(野太刀(のだち)・長巻)・抽刀(居合)・眉尖刀(小薙刀)・青竜(せいりゅう)刀(大長刀)・槍・戟(十文字槍)・鈀(は)(佐分利(さぶり)槍)・鏢鎗(ひょうそう)(投槍・火箭)・棍(こん)(棒)・鉄鞭(てつべん)(卦算(けさん)・鉄扇(てっせん)・十手(じって)の類)・飛鑓(ひけん)(分銅鎖・鎖鎌・虎乱杖(こらんじょう))・拳(やわら)(柔術)・銃(手前筒(てまえづつ)・砲類)の18種をあげている。これらを総合して、今日では弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三(み)つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術の18術をいう。
[渡邉一郎]
『藤田西湖著『武芸十八般名称術技略解』(1958・日本武術研究所)』▽『綿谷雪著『図説・古武道史』(1967・青蛙房)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…これは,日本武道館,日本武道学会,武道学科などの名称に〈武道〉の語が用いられているところからも了解できる。その意味では,日本の武術,武芸,武技などといわれてきた伝統的な運動文化を,近代になって〈武道〉と呼ぶようになったともいえる。しかし〈武道〉には,歴史的に〈武士道〉という倫理思想的な意味もあり,その意味では,茶道,華道,書道などと同様,日本の伝統的な文化として概念づけることができる。…
…こまかい戦術としては,たとえば《孫子》では火攻めのかけ方,スパイの種類を細説するなど,そのまま実戦に役立つことが多く,〈鳥の飛びたつのは伏兵なり,ほこりが高く上がって前のとがっているのは戦車の攻撃なり〉と敵情視察の方法を説くような実体験にもとづく有名なことばも多い。兵書【金谷 治】
[日本]
日本においても,本来は軍法,軍略,戦術,謀略など戦闘に関する諸法の称であったが,のちには武芸に限定する意味が強くなり,兵法者(へいほうじや)とは武芸に練達する者を意味した。また〈ひょうほう〉と呼ばれることも多い。…
※「武芸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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