日本大百科全書(ニッポニカ) 「飯篠長威斎」の意味・わかりやすい解説
飯篠長威斎
いいざさちょういさい
(1421?―1488)
室町時代の武術家。日本の国刀槍術(とうそうじゅつ)史上、中興の祖といわれる。下総(しもうさ)国香取(かとり)郡飯篠(千葉県香取郡多古(たこ)町)の郷士(ごうし)。名は家直(いえなお)、山城守(やましろのかみ)、のち伊賀守と称し、1480年(文明12)60歳のとき入道して長威斎と号した。幼少のころから刀槍の術を好み、古来香取・鹿島(かしま)に伝えられた各般の武芸を学び、壮年のころは時の将軍足利義政(あしかがよしまさ)(1436―1490)に仕えたという。このころ、中央における応仁(おうにん)の乱の影響は関東にも波及し、常胤(つねたね)以来、一門の強固な団結を誇った千葉氏も、一族の内訌(ないこう)が激化し、1451年(宝徳3)惣領(そうりょう)の千葉胤直(たねなお)・胤時(たねとき)が攻め滅ぼされるという事態となった。こうした時代の流れに絶望した家直は兵法者としてたつことを決意し、香取神宮にほど近い梅木山不断所に千日参籠(さんろう)して、ついに剣の極意を悟り、これを体系化して一流を編み出した。天真正伝神道流兵法(てんしんしょうでんしんとうりゅうへいほう)、また香取神刀流という。長享(ちょうきょう)2年4月15日没、68歳。一説に102歳という。門下に塚原土佐守安幹(やすもと)(卜伝(ぼくでん)の養父)、師岡一波斎(もろおかいっぱさい)(諸岡一羽)、松本備前守(びぜんのかみ)政信(まさのぶ)などの逸材を輩出し、また飯篠家の2代若狭守(わかさのかみ)盛近(もりちか)、3代若狭守盛信(もりのぶ)、4代山城守盛綱(もりつな)、いずれもよく父祖の業を継ぎ、刀槍の術に秀で、近世剣術諸流派の一大源流となった。
[渡邉一郎]