委文庄
しとりのしよう
「和名抄」所載の三原郡倭文郷の郷名を継承したとみられる庄園。倭文・四鳥とも記す。倭文川流域の現緑町南端部の倭文土井、三原町北端部の倭文を冠する一帯、西淡町北東部の松帆櫟田などを含む一帯に比定される。「民経記」寛喜三年(一二三一)六月記、および七月記紙背文書の某書状に「委文庄」とみえ、承久二年(一二二〇)当庄は造内裏段銭賦課の御教書を無視し返事も出さなかった。建治二年(一二七六)七月日の湯浅宗親陳状案(続宝簡集)に「淡路国四鳥庄」とみえ、以前に地頭と預所との間で和与が結ばれたが破られていた。貞治三年(一三六四)一一月一三日、幕府は岩倉宮宰相中将家領であった「委文庄村々」に対し船越一族・高倉少将らが乱妨するのを停止させるよう淡路守護細川氏春に命じている(「室町幕府引付頭人奉書案」天龍寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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