精選版 日本国語大辞典 「下地」の意味・読み・例文・類語
した‐じ ‥ヂ【下地】
げ‐じ ‥ヂ【下地】
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公領や荘園において,所当(年貢)や公事(夫役,雑公事)などの剰余労働(または剰余生産物)を上分(じようぶん)というのに対し,これらを生み出す土地(田畠などの耕地や山野未開地)をいう。13世紀以降では,さらにすすんで土地とそこで生産活動に従事する人間との結びつきそのものをさすに至る。律令制下では,土地よりも人身に課す庸・調・雑徭以下の課役の比重が大きかったが,10世紀以後,荘園制が形成され,土地そのものが貴族社寺などの主要な財産となると,上分に対して下地の比重が高くなった。したがって荘園制下では〈下地の知行〉(土地そのものの支配)と〈上分の知行〉(年貢・公事の収取)との二つの知行が,同一の所領に対して重層的に存在しえた。前者を下級所有(地頭職,名主(みようしゆ)職)とすれば,後者を上級所有(本家・領家職,加地子(かじし)職)とみなしうる。しかし実際には,年貢所当のみならず,課役も耕地面積別に課し,耕地と農民以下を統一的に把握する方向にむかい,そのために,本家,領家,地頭,預所(あずかりどころ)などの荘園の各級の領主らは〈厳重之百姓〉を土地に召し付け,勧農(農民の耕作地保有の固定や,それにもとづく経営安定化)政策を行い,彼らの間での相互の下地の進止権,つまり領主的土地所有確立をめぐる争いは激化する。御家人・地頭層を基盤として成立した鎌倉幕府は,1185年(文治1)の諸国地頭設置の勅許をもって〈諸国庄園の下地は,関東(鎌倉幕府)一向に領掌したもう〉(《吾妻鏡》)としたが,必ずしもその方針は貫徹せず,かえって本家・領家以下の荘園領主との対立を激化させた。13世紀に入って,農業技術や分業の発展,勧農政策のいっそうの推進によって,田畠耕地のみならず,在家,屋敷,河川,塩浜,漁場なども下地の対象となり,他方,農・漁民以下の年貢・公事の減免闘争が盛んになると,彼らからもつきあげられて,領家・地頭間の下地進止権をめぐる争いも激化し,両者の間でしばしば下地を分割する事態が生じた。
→下地中分
執筆者:島田 次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
沖縄県宮古(みやこ)郡にあった旧町名(下地町(ちょう))。現在は宮古島市の南西部を占める。1948年(昭和23)下地村から上野(うえの)村が分離独立、下地村は翌年町制施行。2005年(平成17)下地町は上野村、伊良部(いらぶ)町、城辺(ぐすくべ)町、平良(ひらら)市と合併し宮古島市となった。旧町域は宮古島南西部にあり、来間島(くりま)(面積2.84平方キロメートル)を含む。地形は川満(かわみつ)、嘉手苅(かでかり)、入江湾を結ぶ線より北東側は平坦(へいたん)な台地。南西側は低地の平野部からなる。来間島は、南へ緩傾斜する琉球(りゅうきゅう)石灰岩の低島。国道390号が平良地区、城辺地区を結ぶ。来間島とは来間大橋で結ばれる。かつて、入江湾周辺はマラリア病地域で、数村落が廃村になったのち、川満と嘉手苅村落が強制的に建設された。中心集落は与那覇湾に面する上地(うえじ)。現在、農業が主産業で、おもにサトウキビ、葉タバコを栽培。来間島はサトウキビのほか、かつお節製造が主産業。観光地として、与那覇前浜の海岸があり、リゾートホテル、ゴルフ場も立地している。
[堂前亮平]
『『下地町制二十周年記念誌』(1969・下地町)』▽『『下地町町制施行50周年記念誌』(1999・下地町)』
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荘園公領における貢納物の源泉としての土地。荘園形成当初,所当・年貢・所務・上分・得分などに対していった。これは当時雑役免や半不輸(ふゆ)・浮免(うきめん)などにみられるように,貢納物の取得と下地の知行(ちぎょう)が必ずしも一致していなかったことによる。荘園支配の一円化により領域型荘園が形成されると,荘園領主は下地知行を強化していった。しかし鎌倉中期から地頭など在地領主との確執により下地中分(したじちゅうぶん)なども行われ,荘園領主の下地支配は揺れた。鎌倉末期以降,領主勧農の衰退と在地勧農の形成で地下人(じげにん)らの下地掌握が進むと,荘園領主の下地支配はしだいに限定されていく。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…前者の用例が地色,地の文などの地に通じ,後者の地が囲碁の地に当たるのであろう。また〈在地〉〈下地〉などの地は,土地の上に生ずる〈作毛〉とそれによる得分とは区別された,土地そのものを指す語であり,土地の売買などの移動に当たって,平安後期には〈在地〉の人の確認を得ることがとくに必要とされた。地主や地子・地利などの語も,この〈地〉に結びついており,京に対する田舎の意の〈地下〉の地も同様である。…
…所務は収納の意で,《日葡辞書》では〈年貢の取立て〉とする。14世紀初頭の鎌倉幕府の訴訟制度解説書《沙汰未練書》は,所務沙汰とは〈所領の田畠下地(したじ)相論の事〉と定義している。
[管轄]
鎌倉初期には問注所で受理し,実務処理を経て,鎌倉殿自身が裁決した。…
…宮古でも退潮現象があり,また巨大なサンゴ礁岩も打ち上げられている。池間・前里(現,平良(ひらら)市),友利・砂川(現,宮古郡城辺(ぐすくべ)町),新里・宮国(現,下地(しもじ)町),伊良部(いらぶ)・仲地・佐和田(現,伊良部町),塩川・仲筋・水納(みんな)(現,多良間(たらま)村)の12ヵ村に被害があり,計2548人が死亡した。結局,遭難者は八重山,宮古を合わせて1万1861人に達した。…
※「下地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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